2000年2月 おふくろ
 
 私が京都の小僧寺から暇を貰えたのは出家して三年程経った頃であった。網代笠、脚絆に草鞋という出で立ちで、意気揚々として我が家の門をくぐった。その晩はささやかながら心尽くしの手料理で私の帰郷を祝ってくれた。そして久しぶりに眠りにつくと、布団はふあふあとしてまるで雲の上に寝ているようだった。どの位時間が経った頃か、私の肩をしきりに揺するものがいる。暗闇の中何事か と眠い目をこすりながら見上げるとそれは母であった。「ちょっとちょっと。」と小声でいう。ははあ、さては皆に内緒で小遣いを呉れるに違いない。私はそう思い込んで母の後をほいほいついて行った。台所の隅の方まで来ると、「ここに坐りなさい。」と言う。どうも様子がおかしい。そして「お前はもう出家したのだからそんな変な格好をして帰って来なくても良い。この辺は田舎で人の口もう るさい。お前がこれから十年も二十年も修行して立派なお坊さんになれれば良い。でももし途中で挫折してぐずぐずになったら、これからうちの兄さんにも弟にも嫁を貰わなければならないのに、我が家からそんな変な子供が出たら来る嫁も来なくなる。子供はお前だけではない!元気で居ることさえ分かれば良いのだからもう帰って来なくて良い。」

外で は木枯らしがぴゅーぴゅーと音をたてて吹き抜けていた。そしてこの母の言葉は冷たく闇の中に坐る私の心を奥底まで冷え冷えとさせるものであった。
 さっきまでの浮かれた気持ちが一度にふっとんでしまった。それから布団に潜ってもまんじりともせずやがて夜が明けた。こうして二泊三日の帰郷は瞬く間に終わり、今度はすっかり悄気返って再び京都へ戻った。母は何と鬼のような人だろうか。そればかりが思われ頭から冷水をぶっかけられたような気さえした。
 そんな苦い惨めなことがあってから十数年の歳月が流れた。私はひょんなご縁から図らずも郷里に近い鎌倉で小庵の住職になった。なるべく小さな寺で檀家も無い所をと考えていたので、当に望み通りの寺であった。というのも住職になったとはいえ、私の目的が修行を続けることに変わり無かったからである。ところが檀家が無いという事は寺にとってはそのまま無収入ということでもある。賛沢 をする積もりは毛頭ないが、住職になっても毎月決まった期間は岐阜の道場まで通う積もりであったから、せめてその費用だけは何とか捻出しなければならない。そこで考え出したのが托鉢だった。鎌倉市内を托鉢して回り電車賃だけでも得ようと思ったのである。それを聞いた兄は、「その位は心配しなくても良い。修行のために必要なのだから援助してやるよ。」 と有り難い申し出にほっとした のも束の間、母が横から口を出して、「それはいけない。お前はもう独立したのだから、幾ら兄弟でもそういう援助を受けてはいけない。自分のことは自分でやりなさい。」と言い出した。これはもっともなことで、兄にも家庭があり独立して生計を営んでいるわけだから、そういう兄を頼りにして自分の生活を考えるというのは確かに間違っている。なに、電車賃ぐらい知れたもの、何とか成るさ!と呑気に構えていたら、結局後になってみればそんな苦労はせずとも少ない乍らも収入が有って、何不自由なく修行にいそしむことが出来たのである。
 入寺して間もなく兄の車に山程荷物を積んで母がやって来た。何事かと見ると、蒲団や枕、シーツに座布団、果ては鍋釜味噌醤油、箸や皿に至るまで所帯道具一式があり、それがぞろぞろと運び込まれた。母は 「お前が初めて世に出て独立したのだから、他の兄弟にもそうしてきたように、お前にも生活用具一式支度してきた。」 と言うのである。幾ら何もない寺といっても当面必要なものぐらいは揃っていたので、用意して来てくれたものは殆ど何も使わずに済んでしまった。し かし親元を離れ一人ずっと他人の中で生活してきた私にとって、それは久しぶりに味わう肉親の情の温かさであった。

 こうして寺での一人切りの生活が続き、その日々は道場の時とは違って何に縛られることもなく自由な気分で過ぎ、例えようもなく幸せであった。時折父と母が寺にやって来て二、三日泊まってゆくこともあったが、最初の頃は 「どうもシーンと静まり返って人の気配もしないような所は何だかきみが悪いわねー。」と言っていたが、やがて「お寺って煩わしいことを何も考えないで毎日が送れるんだから良い所ねー。」と言うようになった。それから又数年が経ち、父は亡くなり、私も母があれ程好きになって呉れた鎌倉の寺を去らなければならなくなった。母は再び兄の元へ、私は岐阜の寺へとそれぞれ離れ離れになってしまった。それからまた十数年の歳月が流れ、母は四年前九十三才で逝った。今更ながら当時の事が懐かしく想いだされる。

 

 

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