さてこのように解説されてもきっと分からないに違いない。というのも本当の鴨は何かを見届ける為には五年十年と坐禅修行を続けてもらわなければ到底分かるものではないからだ。そこで馬祖の示したかった真実の鴨を私なりに少し角度を変えて申し上げてみたい。
昔は教育といっても今の小学校位で終わり、大抵は直ぐ丁稚奉公や職人の下へ弟子入りして、手に職を付けるために働いた。そして頂いた僅かな貸金も自分で使うことなど殆ど無く、貧しい親の家計を支えるために仕送りした。わずか十二、三才のいたいけな子供が当然のようにそうしていたのである。それに比べて現在はどうだろう。高校までは殆どの子供が義務教育のようにして行くし、その後の大学も続けて進学するから、今では大学 教育といっても特別なものではなくなった。では現代の子供たちはこれだけ教育も進み、より多くの知識を身につけたのだから、昔の人に比べて余程賢く、ものの見方も深くなったかというとそうでもない。つまり幾ら多くの知識を持っていても、それを自分自身の心の中に深く浸透させ、様々な思索の中で受け止められるようなものにしていないのだ。そうでなければ知識など人間として生きてゆく 上に何の働きも迫力も持ち得ないのである。それは例えれば丁度人間が本箱のようになってしまっているのだ。眼前に広がる事実をただボーと漠然と見ているだけでは駄目なのだ。そんなことでは情報も知識も有り余るほど持っていながら、結局何も持たないのと同じことになる。孔子の言葉に″学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし、″というのがあるが、自分 勝手に考えたり又既に誰かが考えた概念でものを考えているようでは、怒涛のごとく押し寄せてくる現代の知識や情報に徒に振り回され、却って間違うのである。つまり真実の眼でものを見なければ対するものの本質は見極めることが出来ないということだ。
以前私の友人の和尚さんからこんな話を聞いた。その人は小さい頃から小僧に入り、中学を卒業したときどうしてももっと勉強したいと思った。そこでお師匠さんに何とか高校へ行かせて下さいと申し出たが、「禅僧に世間の学問などは必要ない。わしが教えてやる。」と言ってガンとして聞いてくれなかったという。しかし何としてでも高校へ行きたいと思い、必死で頼み込むと流石に頑固なお師 匠さんも、「仕方がない、それでは高校へ行っても良いが大学は絶対駄目だぞ!卒業したら直ぐ専門道場へ行け。それが約束できるなら許す。」と言われた。ともかく先のことは何れその時になったら考えるとして、ともかく高校行きが許されただけで、こんなに嬉しかったことはなかったとしみじみ話された。それから瞬く間に三年経ち卒業、恐る恐る何とか大学へ行かせて欲しいと申し出たのだが、今度は全く聞き入れられず卒業と同時に 道場入門となったということである。
|