1999年12月 上座部仏教の尼僧
 
 彼女を初めて知ったのは、数年前私の友人の尼寺にタイからやって来た時である。未知の国にやって来て食事や生活習慣、言葉の違いなどさぞ大変だったに違いない。特に日本の冬の寒さは応えたことだろう。しかし日本での尼僧修行は間面目そのものであった。やがてお茶やお華の稽古にも通うようになり、めきめきと腕を上げていった。私の寺へも尼主さんに連れられて必ず盆暮れには挨拶にや って来た。日本での感想を聞くと片言の日本語ではあったが、新しい環境にも旨く順応でき、周囲の温かな愛情に見守られながら溌刺としている様子が窺われた。
 瞬く間に三年の歳月が流れ、いよいよ明日はタイへ出立という日、老尼さんと共に最後のお別れの挨拶にやって来た。何時もは黒っぽい作務着姿でやって来ていたのが、その日だけは真っ白い正式なタイの尼僧の姿であった。いかにも涼しげで、「矢張りアムナイさんにはその格好が一番似合うね!」と言うと恥ずかしそうに俯いていた。

これからパクナムに戻れば再び尼僧修行が始まる訳で、次は 何時会えるか分からない。いやもうこれが最後の別れになるかもしれない。私はアムナイさんのこれから先の人生が幸せであることを心から祈った。餞別と言っても特別差し上げるものもなかったので、咄嵯に何時もずた袋に入れて持ち歩いていた念珠を紙に包んで差し上げた。途端に彼女は涙をぽろぽろと流して、「アリガトウゴザイマス。」 と言った。まだ充分ではない日本語であったが心がし みじみと伝わってくるような言葉だった。
 こんな悲しい別れがあってから凡そ二年程経った頃、アムナイさんは今はもう尼僧さんを辞めて還俗し、美容師の見習いとして働いているという話を聞いた。あんなに真面目で頭も良い人だったのに、あっさり還俗してしまうとは、一体どういう事なのだろうかと思い力が抜けてしまった。というのも将来はタイと日本の仏教を繋ぐ懸け橋になって活躍して欲しいと期待していただけに大変なショ ックだったのだ。
 朝六時すぎホテルの私の部屋に電話があった。久しぶりに聞くアムナイさんの声はとても元気そうだった。本当に会えるのが嬉しいという気持ちが伝わってきた。ワットバクナムで落ち合うことにした。我々一行が寺の船着場から細い路を歩きだすと直ぐに、「老師さま!」という声がし、見ると髪を奇麗に束ね薄茶のブラウスに黒のスカート姿の女性が佇んでいた。じっと顔を見つめた後、やっと 彼女だと分かった。路地を抜けると直ぐに寺の境内に入った。境内は参拝客で溢れ返っている。本堂では丁度住職の法話の最中で、広いお堂の内外はぎっしりと人で埋まり、皆真剣な面持ちで聞いている。暫く待っていると住職の法話も終わったので皆で般若心経一巻を誦し、その後境内の各建物を順次参拝してパクナムを辞した。アムナイさんも我々のバスに同乗して次の見学地へ向かった。車中隣 合わせに坐ると直ぐハンドバックから奇麗なハンカチを取り出し、大切そうに包んであるものを私に示した。「私のお守りです。」そう言ってぽろぽろと涙をこぼした三年前日本での別れの時に私が立派な尼僧に成るようにとの願いを込めて贈った念珠であった。それが今は在家姿のアムナイさんのお守りになっていた。今の暮らし振りや仕事のことをいろ いろ聞いているうちに、少しづづ彼女の方から現在の心境について話しだした。そこで初めて分かったのだが、タイの尼僧というのは正式なお坊さんには成れないのだそうで、結局は一生男僧の雑用係を務めることで終わるというのである。国が違えばものの考え方も違う。まして上座部仏教の場合は日本の大乗仏教とは根本的に違う。内部にはまだ複雑な事情もある様で、彼女なりに考え抜いて決め たであろうことが窺えた。こういう迷いは何もアムナイさんばかりではない。

我々でも修行中は同様のことで、そこをどう切り抜けて自分の道を作って行くか、そこが修行の最も重要な処なのである。大切なことは目標を見定めることにある。目指すものがあればどんな困難でも乗り越えることが出来る。人は何を心の支えにして生きていくか、根本の処を はっきりさせていることが困難に打ち勝つ為には大変重要なのである。心ほど弱いものはない。立ちはだかる厚い壁の前ではあっと言う問に跡形も無くなってしまう。しかし又一方では心ほど強いものはないとも言える。心は変転自在にその強さと弱きを、時に応じ場に応じて見せては消えるものなのだ。もしそういう心の動きにただ振り回されているだけの人生なら、それは実に虚しいという外ない。しかしその変転する心の奥底に、自分を 支えてやまない真実の心のあることをアムナイさんには見届けてもらいたい。そして悔いない人生を歩んで欲しいと願わずにはいられない。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.