1999年11月 力ンボジヤの自立
 
 カンボジヤの僧になった渋井師とはひょんなことから人に紹介され、一度是非カンボジヤに行って彼の活躍振りを見たいと思っていた。そんな折りチャンスが巡ってきて出掛けることになった。
 さて渋井師であるが、年令は四十才半ば、南国の強い日差しの下での長い生活で、すっかり褐色に焼けた面に柔和な笑みを浮かべ、見るからに律義な感じであった。質素な身なりといい、私は初対面から大いに好感を持った。聞くと東京生まれの彼は二十代半ばの頃、思うところあってそれまでのサラリーマン生活に区切りを付け出家修行、真言宗醍醐派の僧となったという。そんなある時ニュース でカンボジヤでは何百万人もの人達が虐殺され、原野に白骨累累としているのを知った。それからというものどうしてもそのことが頭から離れなくなり、次第に何としても彼の地に渡り供養したいと願うようになった。しかし当時は日本からカンボジヤヘ入国できるルートが無かったので、取り敢えずタイに渡り、滞在中にその然るべき方法を探れば良いと考えた。同じインドシナ半島で両国は地続き なのだから、ともかくタイに行きさえすれば何とかなると思ったそうである。  

そこでまずタイへ渡りバンコックのワットバクナムという僧院で修行生活に入り、一年半ほど修行いている間に漸く伝手を得、プノンペンに入ることが出来た。ところがプノンペンに辿り着いたといっても特別頼るべき人もない訳だから全くの自力で、かっての念願通り村々を訪ねてはうずたかく積み上げられた骸骨に供養のお経を上げる毎日を続けていた。
 そんな日々を過ごすうち、やがて死んだ人の供養もいいが、今生きているカンボジヤの人達の為にも何か役に立ちたいと思うようになった。カンボジヤでは教育も福祉も、はては道路を作ったり橋を架けたりというようなことまで、何事もお寺が中心になって事を進めるという。そこで何とか有力な寺院を伝手にできないかと探すうちに、ワットウナロームという、現在カンボジヤ仏教会の本部が置 かれている寺に入ることが出来た。
 この寺はプノンペン市内のほぼ中心に位置し、広い境内には大小様々な建物が所狭しと建っており、地元の人も観光客も盛んにお参りしている。彼が案内してくれたのは境内の一角に建てられたコンクリート三階建ての建物で一階は食堂、二階は図書館、三階は宿舎になっている。ここで彼は戦争で親をなくしたり、向学心は有っても貧しい為に学校へ行けないという子供たちを引き取り面倒を見ている。現在八名程居るがこの子供たちに食 べさせ学校に遣っても一カ月凡そ三万円で済むのだそうだ。日本の貨幣価値からすると本当に僅かな費用でこれだけのことが出来るのである。しかしその資金を現地で調達することは難しく、その為に一年に一辺日本に帰ってきては、この活動の支援者に協力を仰ぎ、何とか一年分を賄っているという訳である。
 また二年前、彼は京都仏教会と真言宗の支援を得て、仏教学院という学校まで建てた。そこでは今約二百人の学生が勉強しているという。ところが勉強する為の本がないので、一冊だけ買って来ては、一階の印刷所で必要な部数を皆お坊さん達が作っているというのである。そこも見せて項いたが、道具は粗末ながら本の出来栄えはとても素人とは思えない程であった。
 又日本語学校も開き、地元の子供達や一般の大人にも教えている。今回折角お訪ねするので何か必要なものがあれば持ってゆく旨申し上げると、それでは子供達に絵本をお願いしますというので、皆で一冊ずつ持参して図書館に寄贈した。その他木工所もあって、必要な机や椅子、書棚に至るまで手製で作っている。ともかく無い無い尽くしで、何もかも自力で調達しなければ始まらないのだ。便利な生活が当たり前になった日本では到底考 えられないようなことばかりで、それだけに一層渋井師の苦労が偲ばれた。

 今彼はこの活動の自立を真剣に考え始めている。何時までも人の情けにすがっているようでは長続きしない。従って必要な資金はカンボジヤの中で調達してゆかなければいけない。しかし日本のように寺に檀家があってそこから収入を得る訳にはいかないので、そこで木工所をもう少し本格的にし、家具を作り売って収入を得たらどうか。又お参りの人が多いという利点を生かして、本道の前の一角 で土産物品などを売ったらどうかなどいろいろ考えているようである。いずれにせよ、彼はやがて此処から巣立ってゆく子供たちが将来のカンボジヤの牽引車になって欲しいとそれだけを願い、その夢に向かって邁進しているのである。たった一人のお坊さんの発願によって始まったこの活動が今着実に実を結び、カンボジヤの自立のために大いに役立っているとは何と素晴らしいことであろう。

 

 

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