1999年10月 建築
 

 当山の開山悟渓国師の語録、虎穴録の中に次のような話が載っている。ある時悟渓さんは二、三人の仲間と行脚に出た。たまたま琵琶湖の畔に差し掛かり、夏の暑い盛りのこと、よほど堪えたに違いない。早速服を脱ぎ水浴びを始めた。しかし悟渓さん独り手で水を掬い顔を洗うだけだった。それを見た同僚は「何故裸になって水浴びをしないのだ。」と詰問した。するとにっこり微笑み、「児孫の為にこの徳が永く伝わるようにと思って水浴びをしないのだ。」と言った。琵琶湖の水は幾らでもある。しかし一滴の水を疎かにするものは一滴の水に泣く。水の恩恵を全て自分で使ってしまうのではなく、次の世代の者のために残して置くということなのである。近頃は水に限らず何事も今の自分さえ良ければそれで良しと言った風潮だが、結局その付けは次の世代の者が負わされることになる。こんなことで良いはずはなく、やがては遠からず我々自身に跳ね返ってくるに違いない。

 当山も戦前は境内に幾つかの井戸があって、良い水が出ていたのだが、次第に水量も減り近年は殆ど水道に頼っていた。そこで今回伽藍の工事を機会に、新たに井戸を掘ったらどうかと専門家に相談をした。この辺ならきっと出るでしょうと言う御託宣に従って早速お願いした。場所は戦火を免れた鐘桜の南側と決まった。当地は約七メートルより下は岩盤となっており、予定の地下二十メートルまで当に大地を揺るがさんばかりの振動と騒音のなかを掘り進んだ。ところがどうした訳か一滴の水も出てこないのである。曾て開山さんが瑞泉山中臥龍庵で深い深い井戸を掘り、そこからはこんこんと清水が湧き出たという史実を思い起こし、ここまで来たら徹底的に掘り進もうと言うことになった。やがて三十五メートルのところで突如岩盤の中から素晴らしい水が湧きでた。五百年後の今日でも矢張り開山さんのお徳は生きていたのである。この水を使って早速お茶湯をお供えした。
 さて当山は約十年の歳月を費やして全ての伽藍を再建した。時の運というか、計らずも向こうから転がり込んで来た話がそもそもの始まりで、まず庫裏が完成した。立派な庫裏を目のあたりにすると、どうしても今度は本堂をということになり皆の気運も盛り上がり、しかも世は好景気の真っ盛り、このチャンスを逃して成るものかという訳で、早速計画にかかり順調に進んでいった。今回の建築では計画の当初より全て木造で作ろうというのが我々の一致した意見であった。その為には幾つかクリアーしなければならない問題があったが設計者の努力で無事許可がおりた。「拝む対象はコンクリートのような無機質なものでは駄目です。木は生きています。生命のあるもので作りましょう。多少費用が掛かりますが耐用年数から言っても、結局木造の方が得ですよ。設計するまでに一年間猶予を下さい。この寺の四季全てを見る必要があります。雨風や日差しがどうなっているのか、又年間の行事でどのような使われ方をしているのか、それらをしっかり把握してからでないと設計出来ません。」こういう基本的な考え方が気に入って設計をお願いすることにした。出来上がってしまえば殆ど隠れてしまう部分が実は大変重要であり、目にも止まらないような小さなことを疎かにしてはいけない。これらも私は設計者から学んだ。釘隠し、襖の引き手、欄間、照明器具、柱に打つ釘一本が大事。それで建物全体のレベルが決まってしまうという。とりわけ本堂須弥壇は重要な部分であるため入念に設計をお願いした。幾つかの寺を見学してそれを参考にしながら、形、塗り、装飾が決まった。
 最後に正面に龍を彫って入れることになった。僅か縦二十センチ横八十センチの空間である。まず設計者がデザインしたものを彫り師が技術的方面からそのデザインを修正し検討することになった。ところが此処から先が大変で、延々二時間、龍と唐草の取り合いで双方譲らず、口角泡を飛ばしその日はついに水入りと なった。この唐草模様は今回設計者が特にデザインしたもので、建物全体に統一して使われている。鬼瓦、こう梁の絵様、果ては釘隠しの中に数ミリという単位で用いられている。建築家にとってこの若葉をモチーフにした唐草は決して疎かに出来ない重要な部分なのである。その後双方何回かのやりとりの末漸く完成し
て、今無事に納まっている。

 巨大な建物を前にすると大きいところにばかり目が行きがちであるが、それはこういう小さな所を一つ一つ積み上げていった集大成なのである。十年に及ぶ建築工事の中でこのようなやりとりを幾度も繰り返しながら、結局立派な建物を造るのも、人間を作って行くのも同じようなものだということを学んだ。

 

 

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