1999年9月 えにし
 
 僧堂時代の仲間数人と島根県に出掛けた。友人の七回忌法要に出席する為である。彼の寺は人口数万という小さな町の、川の畔の小高い丘にあって、寺の周囲何処からも町が一望出来る、大変見晴らしの良い所に建っている。形どうりの法要が済み、親戚縁者友人達が本堂に集まって食事となり、そこで生前の故人を偲んで昔話が色々出てきた。
 彼は其の町の高校を卒業すると同時に寺を出て大阪に行き、一人前のコックを目指して働いた。やがて腕を磨いて、一流ホテルの厨房に入ることができるまでに成長していった。将来は豪華客船のコックになって、世界を駆け巡ると言うのが彼の夢だったそうである。 そんな或る日、ひょっこり寺の門前の小父さんが訪ねてきた。彼が小さい頃か らちょくちょく出入りして、まるで子供のように可愛がって呉れた人であった。 話の中味はこうである。お寺の和尚さんも段々年を取って体は弱るばかり、跡を 嗣ぐ者もなくこのままでは将来が心配だから、何とかお坊さんの道に戻ってしれ まいかというのである。
 此の寺は元々檀家は僅か数件という小さな寺で、和尚さんが毎日市中を托鉢し て歩き、其れが縁となって次第に一軒二軒と信者さんが増え、今では夏のお盆に 何百軒もお経に廻るという程になった。折角此の様にして和尚さんの力で築き上 げてきたものが、このままでは朽ちてしまう。何とも忍びないという思いから無 理を承知で説得にきたのである。彼もいい加減な考えでコックになった訳ではな く、中々すんなりとは承知し兼ねたのだが、一晩中掛かって心から寺のこと父親 のことを心配し、切々と説く此の小父さんの情にほだされて、彼は遂にお坊さん に戻る決心をした。人生の一大転機である。様々な手続きを経て、やがて伊深の 短大に入学ということになった。当時一年先輩の者の話によれば、入学当初の彼 は縞の背広に派手なシャツ、サングラスを掛けて、其の風体は一寸恐い人に見え たということであった。多分彼自身もお坊さんになると決めたものの、其れは父 親の面倒を、自分がみるより仕方がないからという程度のもので禅僧としてこれ から厳しい修行を乗り越えて、立派にやり遂げるという様なものでは無かったの だろう。全寮制の学校で僧堂の古手の者が一人派遣されて、学生たちの生活指導 をするというシステムになっている。丁度その頃、古参の雲水で目から火が出る ほど厳しい者がいて、何人も居たたまれなくなって脱走するという事があった。 困った老師は色々考えた揚げ句、此の男を舎監として学校に送り込んだのであ る。頭を冷やして世間の風に吹かれ、もう少し人間味を持てという親切な配慮で ある。
 ところが其の程度の事で、固い鋼の様な意志を曲げる男ではない。寮の舎監に なっても其の厳しさでは一向変わる事無く、寧ろ益々磨きが掛かってきた。そう いう猛烈舎監の許に彼は入学したと言う訳である。金剛経という長文の大変読み 難いお経が有って、此れはお教本を見ながち読んで良いのだが、三回つかえたら タイルの上に正座、他の者がテストを終えるまで其の姿勢を崩す事は出来ない。 一例を挙げればこの様な次第で、其の徹底振りは僧堂以上であった。
  しかし此の舎監との巡り合いが彼の心を目覚めさせた。彼が其れまで抱いてい た禅の修行についての思いとは全く違う、本当の修行がそこには有り、決して 唯厳しいばかりではない、禅の奥深さ素晴らしさを此の猛烈舎監からくみ取った のである。目から鱗が落ちるように大変化を来した。やがて専門道場に入門、本 当の禅僧になろうと懸命に修行した。結果的には数年して父親が病に倒れ僧堂を 引く事になった訳であるが、禅僧としての真面目な生き方はこの時しっかり身に 付けたのである。寺に戻ってからは父親と共に寺を盛りたて、布教教化に努めた。 やがて所帯を持ち、娘三人の親となり元気に活躍していた矢先、突然の病に倒れ 数年の闘病生活の後、四十そこそこの短い人生を終わった。

  多分あの時、門前の小父さんの熱心な 得が無かったら、彼はお坊さんに成ることは無かっただろう。例え成ったとしても、あの猛烈舎監に逢わなかったら、本当の禅僧とは何かを識ることも無かっただろう。思えば誠に不思議な縁によって、彼はこういう人生に導かれていったのである。
 人には様々な巡り合いがあって、自分をあるべきように導き、人生を過たぬように助けて呉れるのである。奇しくも此の二人の人達に巡り合い触発されて、それまでは考えもしなかった新しい人生が展開していったのである。例え短い果ない人生であっても、真実の生き方を垣間見ることが出来た彼の人生は、決して悔いないと、私は思うのである。

 

 

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