1999年8月 公案(二)(こうあん)
 
 以前ある高名な仏教学者がこんなことを言っていた。ずっと居士で修行を続け、最後の修行を成し遂げたところでお坊さんになるという方法があるが、これなら楽で良いというのである。もしそんなことを計画的に考えてやったとしたら、修行者の風上にも置けないと言わざるを得ない。
 修行とは分からないことを分かるようにしていくことである。分かるようにしていくためには無駄骨をしっかり折ることだ。人よりも一生懸命雑巾掛けをやったら、それだけ早く公案が通るなどと言うことは無い。そんな因果関係は絶対に成り立たない。
 新到の頃、私は人一倍骨を折り、くたくたになるまで坐禅や作務に精を出した。しかし私より前にどんどん見性(け んしょう=初めての公案を通ること)していった。こんな間尺に合わぬ話はないと、一時馬鹿馬鹿しくなって修行を放り出したことがあった。
けれども努力をやめたら益々進まなくなるばかりで、結局結果はどうであれ骨を折ること以外に方法はないと思い直し再び努力を続けた。 それから半年以上も遅れて漸く見性することが出来た。その時深く心に感じた。他人はどうであれ、私の場合はこの努力を繰り返し続けて行かなければ、これから先この道を行くことは出来ないのだということだった。その間に味わった挫折感と自分に対する腑甲斐なさは、以後の修行上で大きな心の支えとなった。もしこの半年が無かったら、私は別の人生を歩んでいたかもしれない。
 公案をいくつ通ったということだけなら結局たいした意味はない。ヘリコプターに乗ってちょいっとロープで降りても頂上に立つことは出来るのだ。しかしそうして頂上に立ったところでその人の人生にどれだけの価値を得るというのだろうか。殆ど無いに違いない。
 麓から一歩一歩あえぎあえぎ昇って行く努力の過程が尊いのだ。その間に心が鍛えられ、苦しみの中で人は様々に考える。この心の葛藤が人生のあらゆる場面に通じて対応できる普遍性をもち、自分を大きく支える力となるのである。
 公案の拈定工夫と言ってもそれは所詮首から上の作業である。だから少しだけ感が良くて比較的柔軟な考え方の出来タイプの者は骨も折らずにすっと通って行く。これは頭の中の観念の作業であるという良い証拠だ。しかしこのタイプの雲水で、修行を立派に成し遂げた者は一人もいない。何故なら心が鍛えられていないからだ。苦しみの中での必死の葛藤がないからである。それは丁度、ヘリコ プターで山頂に降りるのと同じ事なのだ。しかし、無駄骨をしっかり折って遠回りの末、漸く見性した者にとっても公案は観念であることに変わりはない。
  ”境界を練る”という言葉がある。脳味噌で考えたものを一辺ご破算にして、今度は毛穴一本一本から沁み出る様なものにしてゆく。だから一則の公案が通ったとしても、それは理屈の上で通っただけの不完全なものだと認識し、何時も頭のなかにじっと温めながら、現実の生々しい遣り取りのなかで、必要に応じて引っ張り出しては、一則一則当てはめてみる事だ。そこですっと自分の心の中を通って行かなければ、まだその公案は生煮 えで出来上がっていないのである。そうして初めて首から上の公案を生きた公案にしてゆくのである。
 近頃特に感ずるのは、公案を一則二則と通っても、それが現実の我が身の問題と全く遊離してしまっていることである。欲しい、惜しい、憎い、可愛いという世俗的感情は僧堂修行以前と何ら変わることなく、ただ参禅修行だけが進んで行くと言う不思議な現象を呈している。公案がまるで世間で言うクイズと同様になってしまっている。これでは修行に対しても、自分に対しても不親切である。 つまり参禅は殆どその価値を失う。この原因は我が身可愛さから出ているのであって、自分を甘やかしていては決して道は見えてこない。

 昨今こういう身びいき症候群の若者ばかりが僧堂に入ってくる。これには困ったことで何とか色々やってみるのだがなかなか思うようにはいかない。結局は最初にはっきりと修行に対する正しい考え方を持ってこの道に入らなければ、せっかくの修行も何ら生きてこないということである。
 世間は何時も勝つか負けるか、お互いしのぎを削る競争社会である。大人の場合は仕方がないとしても、これから色々な可能性を持っている子供達にまで結果ばかりを追い掛けて、そこに至る努力の過程を殆ど評価しないのは間違いではないかと思う。長者長法身、短者短法身という禅語がある。一人一人が与えられた命を一生懸命生きる姿が何よりも尊いのである。

 

 

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