1999年7月 公案(一)(こうあん)
 
 「一に掃除二に坐禅」という言葉がある。一見禅寺なら一に坐禅と思うかも知れないが、掃除はそれよりも大切と言われている。道場での修行は坐禅、托鉢、講座、法要儀式など表方のことから、掃除、洗濯、炊事などの裏方仕事に至るまでことごとく修行につながる重要なものであり、一つも疎かには出来ない。そこにどれが上でどれが下というような区別はない。ともかく皆大事な修行なのであ る。しかし修行者にとって最も重要な眼目は何かと問われたら即座に参禅問答と答える。
 入門を許可されると直ぐに公案が与えられ、早速其の日から朝晩の参禅入室が始まる。入門当初の慣れない日常はどれも幸いことばかりである。例えば坐禅について言うと、今日の生活様式は何処も洋風である。きちんと畳に坐ることは寺の子供でさえ殆どないのが実情である。そんな生活を二十数年も積み重ね、体も固まってきた頃、足を組む。時には十数時間も続けて坐る。これなどは全く地獄 の責め苦で、その苦しさに耐えかねて、吐いたり、卒倒する者もある。
又お経も、昔なら小僧時代に師匠から仕込まれて、まだ脳味噌の柔らかいうちにすっかり覚えてしまう。小さい時の記憶力は抜群であるから決して忘れない。それに比べ大人になってからの丸暗記は全く苦痛で、しかも直ぐ忘れてしまう。
 この様にどれ一つとして楽なことはないが、しかしそれらの苦痛をしても、尚参禅の苦しみに比べたら楽なものである。修行者にとって参禅とはそれ程精神的負担となって重くのしかかってくるものなのである。最初に述べた坐禅を始め、様々な修行を一つ一つ真面目に努めていって、その上に参禅がある。だから日常生活と参禅とは切り離すことの出来ないものである。私も雲水の日常をみていて、少しでも怠け心が起きようものなら「だ からろくな参禅が出来ないんだ!」と叱ることがたびたびある。
 しかしこの双方の関係は必要不可欠とも言えない。こう言うと意外に思うかもしれないが、先程も言った托鉢、講座、作務、掃除、洗濯、炊事などの僧堂修行を全くやらなくとも参禅は出来得るからである。
 道場には昔から居士(こじ)という制度がある。これは僧として正式に入門せずに、在家のまま日常生活は普通にしながら参禅をするというものだ。現在瑞龍寺にはそういう者は一人も居ないが、道場によっては大接心(おおぜっしん)に成ると何十人もやって来て盛んに参禅をするという所がある。中には居士のまま修行をやり遂げてしまう人まで居るのだ。こうなるといったい道場での辛い修 行の意味は何なのだろうかと少々疑問が湧いてくる。この点については人によって考え方が様々あるが、次にその一つとして私の考えを述べる。
 以前たまたまテレビを見ていたら、ある女優さんをヘリコプターでエベレストの頂上へ連れてゆきロープで降ろした。わずかな間だったがともかくあの世界最高峰に立たせたのである。
 さて、同じエベレストの頂上に立つといっても、麓から一歩一歩昇って行く、所謂登山がある。こちらの方は膨大な費用と人数がいる。聞けば一人当たり一千万円を要するとも言う。肉体的労力も並大抵ではない。険しいところを昇って行くわけだから、登山についての高度な知識や技術も必要であろうし、ルートの選定、天候の見極め、ちょっと油断をしたら氷河の裂目に転落する危険もある。又 これだけ沢山の力を結集して何日もかけて昇るのだから、全員が心を一つにして目的に向うチームワークも大切になってくる。この様に大きなエネルギーを費やして初めて、その内の二人だけが頂上に立つことが出来るわけである。この二通りの方法は、頂上に立つという点だけを見れば共に同じである。しかしこれほど違うものはない。

 雲水修行と居士修行をこの様な例を引いて比較するのはいささか極端かもしれないが、大接心の時だけちょこちょことやって来て、雲水(うんすい)が汗水垂らして作った食事を、客として上げ膳据え膳で食する。勿論禅堂で共に坐禅も組むわけだが、これとても一日のある限られた時間帯一緒にするという程度である。基本的には何処までもお客さん修行に変わりはない。私も雲水時代経験した ことだが、新到(しんとう)の頃など大接心中はまるで直日(じきじつ)や助警(じょけい)の実験台のようなものである。警策で徹底的に叩かれ背骨を挟んで両方は腫れあがり、満足に両手も上げられない程になる。こんなことも雲水だけで、決して居士さん達にはない。対する師家の方も、在家の人だからという気持ちが何処かにあって、万事に扱いは甘くなる。プロを育てるのとアマチュアーの 違いのようなものである。(つづく)

 

 

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