1999年6月 聖侍(しょうじ)
 
 私は十三年ほど道場で修行し、その後鎌倉の小庵の住職になった。といってもこれは身体の養生をしながら修行を続ける為のものであった。当時道場での私の役割は聖侍寮(しょうじりょう)といって、禅堂の世話係のようなものであった。堂内で坐禅を組んでいる雲水のお茶汲みをしたり、本堂へ皆がお経を読みに行っている間に残って掃除をする。又食事をしている間に次の茶礼(されい)の用意、果ては下駄や草履を揃える下足係のよう なことや体調を崩した雲水の看病等々、ともかく禅堂内での一切の裏方仕事は皆聖侍寮の担当である。その間当然自分の坐禅修行も共にするわけだから相当な忙しさである。お客さんのように上げ膳据え膳で自分の修行だけしていれば良い新到(しんとう、入門したての雲水)の方がはるかに楽である。真冬雑巾を掛けているそばから凍って行くような季節、バケツに手を突っ込むのは相当勇気がいる。
三度の食事もほかほか湯気の立っている 飯や汁を食べるのは堂内員だけで、こちらは皆の食事が済んでから、冷え冷えとした汁をすする。
 又或る年の冬の大接心にはこんな事もあった。解定(かいちん、消灯)後暫らくしてから、一人の新到さんが胃が痛んでとても辛抱出来ないと言いだした。真夜中のことでもあり、正露丸でも飲んで明日の朝まで我慢出来ないかと言ってみたが、本人は顔面蒼白とても持ちそうにない様子である。そこで車を出して二里程離れた街の病院へ担ぎ込んだ。当直医が一人居て診察してくれたが結局原因は 判らず痛み止めでも射って、詳しくは又明日お越し下さいとのこと。やや痛みも治まったようなのでそっと車に乗せ寺に向った。ところが三十分程戻るとウーウーうなりだし、このままではとても辛抱出来ませんと言う。これは大変と来た道を再び戻り、事情を話して痛み止めの注射やら薬で何とか治まり漸く寺に帰ることが出来た。
 朝の勤行は三時半から始まる。一通り済んで六時頃本人の様子を見ると依然として痛みは引かないという。これはどうも様子がおかしいと感じ、午前の行事はパスして今度は別の医者へ連れて行き、診断の結果胃穿孔と言って胃に穴のあく病気で一刻の猶予もならないという。急遽その日のうちに手術となった。幸い一命をとりとめ家族の方々が駆けつけた時にはすっかり落ち着いた状態になった。 一件落着というわけである。これなども聖侍寮の役目の一つで、今でも想いで深い事柄である。
 僧堂では新到三年といって、三年間は新参者で、もっぱらお客さん扱い、何でも上からの命令に従ってやっていさえすれば後は呑気なものである。多少僧堂生活に慣れていない為の苦痛もあるが、全体的に言えば自分のことだけしていれば良いわけである。それが四年五年になって行くと、助警(じょけい) 役位(やくい)というような役目を与えられ行事の先頭に立って引っ張って行くわけである。やがて十年以上になると今度は紀綱寮といって、もうひとつ高い処から僧堂全体 を取り仕切って行く。その後がこの聖侍寮という役で、今度は一遍に下男に成り下がるのである。僧堂のシステムはここの所が大変良く出来ている。私も二十年の修行でこれらの役を一つ一つ通過しながら遣ってきたわけだが、もし最後の聖侍寮がなかったら、もっと幅の狭い偏屈なものになっていたに違いないと思っている。十年二十年と修行を積み上げて行く努力は誠に尊いに違いないのだが、そ れが一方では慢心の種になって行くのである。そういう心の垢を一つ一つ取り去っていったのが、この聖侍寮の修行だった。

 この様な毎日が三年ほど続いたある日建長寺本山の方が突然訪ねてこられた。春から四年間本山に出て、事務を手伝ってもらえないかという話である。まだ鎌倉の地にも慣れず、困ったことに成ったと思ったが、結局お手伝いさせて頂くことにした。ところがそうなると日中建長寺へ行っている間、寺は誰もいなくなって不用心である。そこで無理矢理父と母に頼んで留守番役を引き受けてもらうこ とにした。既に七十歳を超えていた母は最初人気のない広々とした寺は気味が悪いと言っていたが、だんだん寺の生活に慣れるに従い、却って静かで落ち着いた鎌倉の生活を喜んでくれるようになった。私は十数年前この父と母の存在が鬱陶しく、逃げ出すように故郷を捨て出家した。二度と帰ることもまして父や母と暮らすことなどあるまいと心に決めていた。それが図らずも巡り巡って又この様にひとつ屋根の下で一緒に暮らすことになった。なんと不思議なことだろうか。その間の 十数年の歳月と修行が私の心をすっかり変えて、既に年老いた父と母と私と三人の静かな生活が何よりも尊く楽しいものに思われた。

 

 

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