1999年5月 薫習(くんじゅう)
 
 或る人からこんな質問を受けた。「坐禅 を組むと無心になれますか。」私は即座になれませんと答え、更に 「坐禅して去年の借りを思い出し、と言うように無心に成れるどころか、普段忘れていたようなことまで次々と心に浮んできます。だから無心ではなく有心です。」と付け加えた。それならなぜ足の痛い思いまでして坐禅を組みに行く必要があるのでしょう。一般の人は大抵は平生忙しくばたばたと時間に追われている。だからせめて禅寺へ行って坐禅を組んでいる時くらい心静に過ごしたいと思うのは当然のことです。 しかし実際は今申し上げたようにそんな希望通りにはいかないのです。
 では坐禅は何の為に行なうのでしょうか。私はこう考えます。お寺に坐禅を組みに行こうと前日の晩、心に思った時から既に大きな意味での坐禅が始まっていると言っても過言ではありません。
そしていよいよ当日朝早く起き、顔を洗い準備万端整え、そして車に乗ってお寺に向う。漸く到着して境内に脚を踏み入れ、掃き清められた庭を眺めながら、澄んだ空気を胸一杯吸い込む。これら全てがも う坐禅なのです。もしそのお寺が何百年という伝統に支えられた古刹であれば、自然に醸し出される禅の空気は量り知れないほど深いものがあります。だから例えその日の坐禅がほんの一時間程度の短いものであっても、こう考えるとその人の心の中では相当長時間に渉って坐禅を組んでいることになるわけです。これが実は非常に大切なことなのです。私はまだ未熟でとてもまともな坐禅など組めま せんという人でも、禅堂にただ静に坐れば知らぬ間に無の世界の真っ只中にいることになるのです。自分を取り巻く天井や床、壁、柱全てに禅が染み付いていて、そこから滲み出てくる空気が自然に身体に取り込まれているからです。これを薫習(くんじゅう) と言います。
 坐禅は組んだからといって、何か心境に大きな変化や、目に見えて得るものがあるかと言えば多分殆ど有りません。実際には何も変わらないのです。では何処に価値を見出せば良いのでしょうか。考えるに人生には必ずここ一番という大問題に打ち当たるときがある。そういう人生最大の危機に直面したとき平生の理屈や道理ではどうにもならない。自分の持てる力の全てを投げ出し、死力を尽くし て煩悶する。そんなとき坐禅の威力が発揮されるのです。平生何にもないときは影を潜め、いざというときに自分を底から支える大きな力となる。それこそが坐禅によって自然に蓄積された深い禅の世界の薫習なのです。ここでひとつ大切なことは直ぐ諦めないことです。禅の修行は一にも二にも根気です。今は何ごとも効率第一主義で、要領良くやるのが一番という風潮ですが、遠回りをして無駄骨 を折る。こういう一見非効率に見えるやりかたの中にも、実は大きな価値があることをもっと認識する必要があるのではないでしょうか。
 今年ニューヨークの島野老師の大菩薩禅堂を初めてお尋ねした折り、各国からやって来た修行僧に会うことができました。そこでは一番古参の者で二十八年、その他十数年、また十年、七年と、長い年月の修行を当たり前のこととしてやっていた。皆二十年三十年という単位で修行に取り組んでいるのです。これが当然なのですが、わが国の道場の現状と比較すると誠に羨ましいかぎりでした。遥か アメリカの山中で禅の修行とはこのようにしてやるものだというお手本を見せつけられた気がしました。
 昔高名な学僧が法隆寺で講義をしていた。或る日一人の学生が遣ってきてこう言った。「私はずっと先生の講義を伺って参りましたが難しすぎて一向に解りません。私には学問の才能が無いように思います。これからは、田舎の寺に戻って檀家のお世話や田畑を耕して暮らそうと思います。」それを聞いた先生はその学生に向って言った。「私の講義の内容など解らなくともよいから、教室の片隅でじっと聞いていなさい。千日聞き流せ!」

 仏教の難しい理論や教義は解らなくとも、そのわけの解らない講義をじっと聴き続けることがどれ程大きな意味を持つものであるかを知らなければなりません。本当に伝えたいものは理屈や理論ではなく、仏教の真理そのものなのです。言葉を超え理論を超えたところにある仏教の魂そのものこそもっとも伝えたいところなのです。先程ニューヨークの大菩薩禅堂の修行僧について書きましたが、彼らは生活習慣や言葉、背景になっている文 化も全く異質なところで育ったにも拘らず、日本人以上に、禅を素直に受け入れています。もし禅が言葉や理論によって理解されるものだとしたら、決してあのようにはならないでしょう。島野老師から迸しり出る禅の魂を彼らは感覚的に肌を通して受けとめ、それを新たな修行に向う活力としているに違いありません。

 

 

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