1999年4月 聖書
 
 この所、年に一度はロンドンへ出掛ける。目的は友人のポール氏が主宰する道場で、修行のお手伝いをするということと、イギリスの広大な田園風景の中でのんびり寛ぐ旅をすることである。更に滞在中市内各所にある美術館や博物館を案内してもらい、彼の説明を聞けるのも楽しみの一つになっている。或る時有名な大英博物館へ出掛けることになった。その広大な館内はどれも素晴らしいもの、 貴重なもので溢れんばかりである。見学を進めて行くうち、彼が 「これだけは是非見ていって下さい。」と案内をしてくれた場所があった。そこは沢山の聖書の写本がケースに収められた所だった。勿論紙の無い時代であるから革を薄く鞣し、その左のページには文字がびっしりと書かれ、右のページには微細な絵が極彩色に彩られ描かれたものであった。文字は一文字一文字装飾的に書かれ、どのページのものも寸分違わず、その凡帳面なこ とといったら驚くばかりである。
余程気力が充実していなければこうはいかぬと思われた。又絵もよくもこんなに細かく描けるものだと感心する程に微細を極めていた。その装丁の立派さと、陳列されている数の多さには圧倒された。何百年前の誰がこの様な膨大な作業をしたのか想像だにしないが、一点一点を穴の空くほど見ているうちに、その人の信仰の力がひたひたと私の胸に伝わってくるよう な気がした。不勉強でキリスト教については殆ど知らず何が書かれ、一体どういう意味の絵なのかまるで分からないが、唯そうしてじっと見ているだけで、キリスト教を後世に伝えたいと願った人間の深い思いが偲ばれて頭が下がった。
 そこから直ぐ近くの所のところにグーテンベルグの印刷機が展示されているが、この双方の取り合せは実に象徴的であった。というのも印刷機が発明されたお陰で我々は簡単にどんな書物も手にすることが出来るようになった。そしてその後の科学技術の発達は目を見張るばかりで、我々は今日この恩恵に浴し便利さを享受している。多くの人達が書物を通して教えに触れられるようになったのである。しかし一方ではそのために失ったものも 多く、例えばこの聖書にしても、極端な言い方をすればインクの染みになってしまい、一文字一文字から発せられる脈々たる信仰の力はもう無い。いくら便利で文字として教えを学ぶことが出来ても、肝心の信仰そのものが失われてしまっては何の意味もない。宗教が学問の対象になり果ててしまったのである。いくら理論を覚えて人に道理を説くことが出来ても、自らが救われなければ所詮絵に書い た牡丹餅にすぎず、腹は膨れぬのである。 この膨大な聖書に費やされた時間の持つ価値は、ただ便利で効率的という今日の価値観では到底推し量ることの出来ない深い意味を持ったものなのだということが分かる。
 ここで思うのは、物と人間との間に機械が入ると途端に魂が抜け落ちてしまうことだ。だからといって自分だけ江戸時代のように生活しようと思っても出来るものではない。やはりこの便利な現代社会の真っ只中で暮らしてゆく他ないのだ。ではその抜け落ちてゆく心をどのようにして取り戻したら良いのか。昔は何も考え無くとも自然に心を加えていたのである。ところが今は個人個人がしっかりと、”私はこの様に生きます”という信念を 持たなければ、否応無しに時代の弊害に飲み込まれ、結果的には人と人との繋がり、家族の絆さえばらばらになって、心はパサバサに千涸びて行くのである。これを時代の所為として片ずけてしまってはそこから、新しいものは何も生まれてはこない。より一層個人の自覚が求められるわけである。
 表面的には昔より高学歴で情報も格段に多く、どれだけ賢い人間で溢れるか知れないが、実際には大違いでむしろ親達の時代より劣っているのである。例えば大英博物館の展示品の中でも一級品といわれるギリシャのパンテノン神殿の彫刻は、それ以前にも以降にもこれを超える作品は一つとして尚出てきていないという。美術の世界でも然りである。

 盲目的に無自覚に生きていては駄目だ。 周りを見渡して自分と比べ、今どさは大体こんな風だからこれで良し、といったような気持ちで安心していては精神はどんどん後退してしまうのである。道場の例で言えば今、大半が二、三年お茶を濁しただけで、さっさと帰って行ってしまう。良く考えてみよ。職人の世界でも、会社でも或は芸術でも、二、三年で良いなどというのは聞いたことが無い。それは周囲が厳しい目で見ていて、簡単なこ とでは許してくれないからだ。禅僧は”人天の大導師”という。人間界天上界の大指導者たる者、いい加減な修行でどうして相手にされようか。この魂の龍もった聖書は我々に向って宗教のあるべき本来の姿を問い掛けているのである。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.