さてそういう清掃会社の社長さんから聞いた話だが、仕事で或る大学の教室掃除に出掛けたときのことである。黒板を見た途端に止めども無く涙が流れたというのだ。彼の家は曾て大変貧しく、多くの兄弟を抱えて困窮した家計を支えるために大学進学の夢を捨て、すぐに実社会に出た。幸い仕事もなんとか軌道に乗り、今では小さいながらも社長として会社を経営するまでになった。しかし何時も心にあるのは大学進学への夢、そういう長い間の思いが黒板を見た途端に涙となったのである。誰だってただ黒板を見ただけで泣く人などいない。このように我々は存在するものを単なる物質として見ているのではなく、心の表れとして認識しているのである。
話は変わって私事になるが、毎日健康のために裏山を歩いている。コースは何時も決まっていて水道山、鷺谷、権現山(ごんげんやま)経由、伊奈波神社までを往復する。所要時間は約一時間半、一汗かいて丁度良い運動量である。コース半ば権現山を過ぎると道はジグザグに下がり、左右には数十体のお地蔵さんが安置されている。その中の一体のお地蔵さんの顔が実に柔和で何時も優しく微笑み
かけているように思われ、私は知らぬ間にすっかりファンになってしまっていた。だから他のお地蔵さんにはちょっと悪いと思いながらも、そのお地蔵さんにだけは”オンカカカビサンマエイソワカ〜”と地蔵真言を唱え合掌礼拝するようにしている。そのお参りが済んで前を通り過ぎると下り坂になり鍵の手に曲がる。そこでもう一度今お参りしたお地蔵さんを振り返って下から見上げる。この時、お地蔵さんの顔が優しく微笑んでいたらその日はOK!、だがもし何処か顔つきに厳しいところが窺えたときには、日頃自分には気が付かない処で何か心に間違った点があるのではないか、それから先の帰り道にはずっと考えることにしている。石の地蔵さんの顔がその日その日で変化するとは、常識的に言えば有り得ないことだが、私には変化して見えるのだ。この見返り地蔵≠熕Sで物を見ている証拠ではないだろうか。
三年前本堂に障壁画を描いて頂いた。土屋穫一先生はその年が辰年であったことや、寺が瑞龍寺であるということなどから、モチーフは龍となった。ご存じのように龍は架空の動物で、虎、牛、蛇、兎、蚕、鷲など九匹の動物を合わせて作られているという。古今東西中国を始め、我が国でも多くの画家が数多く龍を描いてきた。そこで結局はどこかのを真似することになるわけだが、先生は全く新しい言わば土屋龍を描きだしたいと思われたそうである。三年間の試行錯誤の末、ようやく出来上がった。その龍は真正面を向き、架空の動物というよりむしろ人間の雰囲気を漂わせている。じっと見つめていると、龍の形を借りた土屋先生の内面そのものが描かれているように感ぜられる。これもまた龍という形を借りて、心が表現されているのである。以上三話、この世のものは全て心の表れであるということを申し上げてきた。
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