少し以前までは岐阜から大分まで出掛け、そこで用事を済ませて日帰りするなどということは到底考えられないことであった。それが今では新幹線が通り、さらに最近に至ってはスピードアップされたのぞみが走るに及び、益々旅が効率的になった。これはたしかに便利で快適で結構ずくめに思われるが、そうとばかりは言えないと感ずる。つまりこんな猛烈なスピードは、我々人間が本来持ってい
る体内のリズムに合っていないのではないかということである。私には矢張り自分の力でてくてくと歩くスピードが一番しっくりゆくように思える。名古屋から小倉までわずか三時間というのはどう考えても異常と言わざるを得ない。
人間が太古の昔、暮らしていた自然なリズムは今日も我々の体の細胞のそこここに残っていて、その不自然さやギャップが得体の知れぬ疲労感につながっているのではないかと考えられはしないか。言い換えれば”魂の遊離”である。電車に乗って快適だと感じていたのは肉体だけで、実のところ太古のリズムで動いている魂は置いてきぼりを食わされ、後から汗を拭き拭き必死になって主人を追い
掛けている。我が家へ帰って横になっても寝付けないというようなのも、まだ見知らぬ土地でまごまごしながら一生懸命後を追い掛けている”魂”のせいではないかとも思える。
私は最近歩いて四国遍路の旅をしている。遍路というとそれだけで特別な意味が込められていると思われるかも知れないが、実際にやってみると別段何もない。てくてくとただひたすら歩くのみである。それなのに不思議と心が安らぐのは何故だろうか。最初この意味がよく解らなかったが、やがてこう思うようになった。この何とも言えぬ心地好さは天地自然のリズムと体とがぴったりと合った空
間に身を委ねていたからこそ生じたのではあるまいか。
間もなく二十世紀が終わりを迎える。各方面でこの百年を振り返ってみて、どうだったかということが議論されている。私は二十世紀最大の特色を挙げるとすれば、それは目覚ましい科学技術の発達ではないかと思う。我々は日常当たり前にその恩恵に浴し便利で快適な生活をしているわけだが、一方ではその弊害が近年深刻な社会問題として騒がれだし
た。しかしこれらの議論は大半物質的な事柄だけに偏っていてもう一方の心の弊害を見落としてはいないだろうか。
特に異常な犯罪や事件が多発するのを見るにつけても、これは一個人の特異な問題ではなく、もっと深刻なところで人々の心が蝕まれている証拠なのではないかと感じる。私にかぎってそんなこととは無関係と思っている多くの人達も、実は極めて危険な淵を無自覚のままに通り過ぎているのであって、ちょっと何かの弾みで歯車が狂えば我々も即、当事者に成り得る状況の中に居ることを自覚す
る必要がある。
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