2001年9月 開堂
 
 平成十一年四月、本山妙心寺で歴住関堂式というのをさせて頂いた。檀信徒の方々や私の個人的な知人友人など多くの方々に御参拝頂いた。遠くは九州、東北方面からもお越し頂き、お礼を申し上げなければならないのはこちら側にも拘わらず、式後いろいろな方々からお礼の手紙を頂いた。その中で特徴的に思われたのが二通あったのでここにご紹介する。 まず一通目であるが、この方は内務官僚で多分将来は重要な幹部になられると推察されるのだが、この様な文面である。久しぶりに曾ての座禅会員の方々にお目に掛かれて良かったこと。次に感じたのは妙心寺境内が清冽な美しさであったこと。全国各地に所謂本山は沢山有るが、立派で境内も広々としていれば居るほど、いろいろな業者が参拝客を当て込んであちこちに俄仕立ての売店を作る。

そこにはカラフルな広告入りのベンチが置かれ、スピーカーからはおよそ寺に相応しくないような音楽が辺りかまわず流れてくる。また近辺の空き地には車が所狭しと突っ込んでいるというような光景をよく見かける。禅寺では境地を整えるということがある。静かなたたずまいこそ相応しいのである。その点においても妙心寺の境内の清々しさは群を抜いている。この点に直ぐ気が付かれたのはどな たも同感されたことと思う。
 次に、しかし何より良かったのは老師のこの上なく気力横溢した凛然たるお姿を拝見出来感動したことです‥‥″自分のことを書くのは些か気恥ずかしいが、これはむしろ私がどうだったというより、伝統の儀式をしっかり守り伝えてきた規矩(規則のこと) がしっかりしていたということであろう。この度私が曾てお世話になった鎌倉方面の和尚さん方も沢山出席して下さった理由の一つには、これを機会に今日まで伝統を崩さずに守り伝えられている妙心寺の開堂を見学したいという気持ちがあったのではないかと推察している。″何事のおわしますかは知らねども忝さに涙こぼるる≠ニいう歌がある。開堂という行事そのものは元来僧侶を対象にした儀式であるから、在家信者の方々にはその内容や意味が殆ど解らないというのが実情であろう。しかし何か知らぬが、儀式の中に漂う荘厳な感じは伝わって、それが先程のような感想になって表れたのだろう。単なる古びた儀式といえばそれまでだが、威儀即仏法、という言葉もある。目には見えない法″を一つの形として表したものがこういう儀式であるとも言える。たとえ詳しい意味は理解できなくとも何事か心に深く感ずるものがあったということならばそれで素晴らしいことだと思う。
 さてもう一通の方であるが、これとは全く逆の感想を寄せられた。この人は子育てや家族のことなどさまざまな悩みを抱えながら頑張っている若い奥さん方を指導されている方で、日頃から私自身も大いに啓発を受けている。現代社会は核家族化が進みそれと共に地域社会のコミニケーションが失われ、いったい何を頼りにして良いか迷っている御婦人方が沢山居る。そういう人達をケアーしてゆく 団体を主催している。私は或るご縁で知合い、既に二十年来のお付き合いである。彼は次のように当日の儀式を感じたそうだ。確かに厳粛な儀式には達いないが、いったい何をやっているのかさっぱり解らなかった。唱えている言葉も全く理解できないし、それについての説明がなされるということもなかった。これは現代仏教を象徴するようなものだ。考えるに今日社会で深刻な問題となっている登 校拒否や家庭内暴力、或いは脳死と臓器移植の問題等々、教団として社会に向けてのメッセージが何もないではないか。これでは社会に生きた仏教とは言えない。今だにこういう訳の解らない儀式をしているだけでは一般社会と遊離している。ぎっとこの様な内容であった。私もこれには同感した。宗教家の大半は葬式と法事で明け暮れている。どだいこんなことで宗教家などとは言えまい。それを 認めている社会の側にも大いに問題があると思うが、唯々諸々としてその上に胡座を掻いている我々宗門にも猛省を促したいところである。

 この手紙を呉れた友人のように、実社会の中で厳しい現実と常に向き合い日々葛藤している人の側から見れば、宗門内だけで通ずる前近代的儀式に自己満足している姿は矢張り可笑しいと見るのが妥当であろう。”手を拍てば鯉は寄り来る鹿は逃ぐ下女は茶を汲む猿沢の池″という歌にあるように、ボンと手を拍っただけでも立場によってはこれだけ反応が異なるのだ。ましてやこれが人間社会とな
れば、様々な意見の違いがあって当然である。その中で何より大切なことは自己の責務を全うすることだ。宗教家は宗教家らしくあるべきようは何か″を常に自問自答しながら正しい道を歩まなければ成らぬと感じた。

 

 

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