そこにはカラフルな広告入りのベンチが置かれ、スピーカーからはおよそ寺に相応しくないような音楽が辺りかまわず流れてくる。また近辺の空き地には車が所狭しと突っ込んでいるというような光景をよく見かける。禅寺では境地を整えるということがある。静かなたたずまいこそ相応しいのである。その点においても妙心寺の境内の清々しさは群を抜いている。この点に直ぐ気が付かれたのはどな
たも同感されたことと思う。
次に、しかし何より良かったのは老師のこの上なく気力横溢した凛然たるお姿を拝見出来感動したことです‥‥″自分のことを書くのは些か気恥ずかしいが、これはむしろ私がどうだったというより、伝統の儀式をしっかり守り伝えてきた規矩(規則のこと) がしっかりしていたということであろう。この度私が曾てお世話になった鎌倉方面の和尚さん方も沢山出席して下さった理由の一つには、これを機会に今日まで伝統を崩さずに守り伝えられている妙心寺の開堂を見学したいという気持ちがあったのではないかと推察している。″何事のおわしますかは知らねども忝さに涙こぼるる≠ニいう歌がある。開堂という行事そのものは元来僧侶を対象にした儀式であるから、在家信者の方々にはその内容や意味が殆ど解らないというのが実情であろう。しかし何か知らぬが、儀式の中に漂う荘厳な感じは伝わって、それが先程のような感想になって表れたのだろう。単なる古びた儀式といえばそれまでだが、威儀即仏法、という言葉もある。目には見えない法″を一つの形として表したものがこういう儀式であるとも言える。たとえ詳しい意味は理解できなくとも何事か心に深く感ずるものがあったということならばそれで素晴らしいことだと思う。
さてもう一通の方であるが、これとは全く逆の感想を寄せられた。この人は子育てや家族のことなどさまざまな悩みを抱えながら頑張っている若い奥さん方を指導されている方で、日頃から私自身も大いに啓発を受けている。現代社会は核家族化が進みそれと共に地域社会のコミニケーションが失われ、いったい何を頼りにして良いか迷っている御婦人方が沢山居る。そういう人達をケアーしてゆく
団体を主催している。私は或るご縁で知合い、既に二十年来のお付き合いである。彼は次のように当日の儀式を感じたそうだ。確かに厳粛な儀式には達いないが、いったい何をやっているのかさっぱり解らなかった。唱えている言葉も全く理解できないし、それについての説明がなされるということもなかった。これは現代仏教を象徴するようなものだ。考えるに今日社会で深刻な問題となっている登
校拒否や家庭内暴力、或いは脳死と臓器移植の問題等々、教団として社会に向けてのメッセージが何もないではないか。これでは社会に生きた仏教とは言えない。今だにこういう訳の解らない儀式をしているだけでは一般社会と遊離している。ぎっとこの様な内容であった。私もこれには同感した。宗教家の大半は葬式と法事で明け暮れている。どだいこんなことで宗教家などとは言えまい。それを
認めている社会の側にも大いに問題があると思うが、唯々諸々としてその上に胡座を掻いている我々宗門にも猛省を促したいところである。
|