2001年10月 悪戦苦闘能力
 
 僧堂修行で最も重要なのは坐禅である。精神統一をして妄想邪念を払い、心を無にしてゆく。これなくして禅の修行は成り立たない。数息観といって出入りする呼吸を静かに一つ二つと十まで数えることを繰り返す。簡単なことと思うかもしれないが、意外に気が付くと数えるのを止めてよそごとを考えていたり、また十二、十三と数えていたりして、一口に精神統一といってもいざ現実の問題と なると大変難しいものである。これを静中の工夫という。
 修行はこれだけではない。動中の工夫というものもある。これは日常の様々な作業、庭掃除、草引き、ご飯炊き、看経、托鉢など体を動かしながら心を練ってゆく修行のことである。その上さらに修行の手引きとも言うべき講座がある。これは道場の指導者である師家が講本を基に宗旨の眼目や修行への心構えなどを体験を通して雲水に直接語り掛けるもので、同じ修行の道を歩む先輩としての生の声は迫力があり胸に迫るものがある。

雲水 はこうして多角的に鍛えられ練られてゆく。このような日々の鍛練があって次の公案工夫という修行と向き合うことになる。
 ところで人は他人の心は案外よく見透せても、自分の心となるとそうはいかなくなるようである。私にかぎってそんなことはない、綺麗に澄み渡っていますと口では言っても本当は濁っているかもしれないのだ。例えば冬の季節、斜めに日差しが差し込むころになると光線の角度によって部屋中濠々たる境が飛びかっているのを見ることがある。今までこんな不潔な空気を吸っていたのかと吃驚りさ せられる。この様に澄んでいると思っていたのはありのまま真実の姿が見えていなかっただけで、実は汚れた空気が充満していたかもしれない。何より大切なのは解らぬところに光を当てることである。
 公案は隻手の声を聞いてこいとか、両親が未だこの世に生まれる以前の自分を見てこいとか、常識では到底理解出来ないような難解な問題で、ぎゅうぎゅうの目に合わされる。一つの公案が与えられると直ぐその日から朝晩二回答えをもって一人づつ師家のところへ参ずる。これが参禅問題である。しかしこの難解な問題も一生懸命やっているとだんだん見えてくるようになるから不思議だ。これを 見性(けんしょう)といい、僧堂修行の有り難さというのか、人間成せば成るである。一つ通ると直ぐ次の間題が課せられ、こうして数百の公案を透過して初めて大事了畢(りょうひつ)となる。
 私がこの道場を預かるようになって十九年になるが、その間多くの雲水と対してきた。大変奇妙なことに二、三年すると必ずといって良いくらい公案にゆきづまって、二進も三進もゆかなくなる者が続出する。どうしてこうなってしまうのか、私にはその理由が解らなかった。少なくとも自分の経験に照らし合わせるとそんなことはなかったからである。しかし何年か経つうちにそれにも答えらしい ものが見つかった。
 初めにも書いたように公案というものは一言でいって、何とも常識を越えた訳の解らないものである。それでも真剣に命懸けで取り組めば難攻不落の課題も克服することが出来、そこで大抵は解った″と思い込む。この間題はこの様に解けば答えに至るのだと考えてしまうのだ。実はこれが大いなる誤りなのである。つまり禅の真理にはこうすればこうなるなどという理屈や道理はなく、結果途端 に次の公案が全く見えなくなるのだ。
  ″悟り≠ニは強いて言えば、私はフィーリングだと思っている。何にも無いところに徹底すると見えない世界が響いてくるのだ。だから何時も心を研ぎ澄ましてその何にもない≠ニころで飯を食い、仕事をし、悩み考え苦しむ日々を倦まず弛まず持続することが大切である。つまり公案から何を学んだのかといえば″悪戦苦闘能力≠フ有ることを知ったのである。だから成すべきことは一つ、次 の公案にむかって死に物狂いで悪戦苦闘することである。これを繰り返す人生が私の生きる道なのだと深く心にきめてひたすら努力を続けること、これを正念相続という。

 ところが大抵は一度だけでもうこんなことは懲り懲りだと思ってしまう。途端に心に緩みが生じて何とか理屈で行けないかと考えるようになる。これが既に新たな妄想を生むのである。結局悟りはないのだ。それは唯々一途に道のために、あらゆる外ごとを捨てる決意と、ぎりぎりのところで頑張ってゆくことが当たり前なのだと思う信念に他ならない。公案によって何時も心を問われているのだ。
我々は宗旨に叶った答えを出し続けてゆかなければならない。この覚悟がなければ行き詰まることも当然と言わなければならぬ。

 

 

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