2001年11月 障壁画
 
 平成元年、杉山幹夫、岡本太右衛門両社長さんと共に私は京都ホテルに滞在中の加藤東一先生をお訪ねした。先生は当時日展の理事長をされ、折しもその巡回展でたまたま京都に居られたのである。ホテルのロビーで計画中の本堂が完成の暁には是非障壁画を描いて頂きたいとその時初めてお願いをした。その晩は市内の料理屋さんで会食ということになった。先生は大変お酒が好きな方で飲むほどにお互いの硬い雰囲気は取れ、日頃感じて居られる様々な興味あるお話をされた。私はその日初めてお目に掛かったにも拘らず、先生の持っている親々とした雰囲気と何のてらいも無い話し振りにすっかり引き込まれ、一辺にファンになってしまった。その時丁度K寺からも障壁画を依頼されたということだったが、うちの方はこれから本堂を建てるわけで四、五年先のことであったし、そちらの絵を完成されてから私どもの仕事に掛かって頂ければそれで良いと話がつき、まずは目出度しと喜んで帰ってきた。

  その後何年か経ち東京まで設計図面を持参し、ここの場所に描いて項きたいというような具体的な話をした。その時の様子はどうもこんなに大規模な障壁画を頼まれるとは思って居られなかったというような雰囲気だったが、乗り掛かった船だということと、地元財界の強い要望が込められた話だということもあって一応やって頂ける目処もたち一同安堵の胸を撫で下ろした。それは合計二十七面にも及ぶものだったのである。
  その後、数回藤沢のお宅へもお邪魔して細かい打ち合せを重ねていった。そうして又何年かが過ぎ、計画の本堂もいよいよ完成しようとしていた。その頃K寺の障壁画も無事完成し我々も招待を受けて完成披露に出掛けた。いよいよ次はうちの本堂に掛かっていただけると皆期待に胸ふくらませていた。ところが暫くすると先生の方から、「実は・・・」と言ってきた。何事かと伺えば先方の寺からの要望で、他の寺には障壁画を描いてもらいたくないと言われたというのである。他に似たような障壁画が出来ると、自分の方の絵の値打ちが下がってしまうというのが、どうも相手の考えであったらしい。思いも掛けぬ話に我々一同思案に暮れた。何と根性の小さいことを言う寺もあるかと吃驚した。しかも相手は我々と同様の禅寺である。むしろ素晴らしい先生の作品が何カ所かに残り、後世に伝えて行くことが出来れば逆に素晴らしいことと考えるべきである。
  何回かこの間題について先生と話し合ったが、結局我々の方で引くことにした。 こんなことで先生のお心を煩わせるのはご無礼だと思ったからである。それにうちの障壁画はそもそも先生が曾て同じ町内で生まれ育ったという、いわば故郷に足跡を残して項こうという極めて純粋な思いからでた話であったし、また先生自身もこれと同様な考えを持って居られたところから始まったのであって、それがこういう結果になったのなら諦めましょうという結論に達したわけである。
  半ば諦め掛けていた折り先生が体調あ壊され病の床に伏せられた。その入院中の病室にお邪魔した時のことである。先生 は約束を果たせなかった責任を非常に感じられているご様子で、「お寺さんの方でご承知頂ければ一番弟子の土屋禮一さんに引き継いでやってもらったらどうかと思うが・・」と言うご提案を頂いたのである。ご奉納頂くこちらとして勿論依存のある筈もなく即座に了解し、その足で国分寺の土屋先生のお宅までお願いにあがった。既に加藤先生から内々に話がいっていたようで、その場でご承知頂いた。この時のほっとした思いは今でも忘れられない。今度は間違いないと、帰って早速関係者に報告した。
  ざっとこの様な経過を経てようやくこの話が正式に動きだしたわけである。それから三年半の月日が流れ、約束通り平成十年十二月二十六日立派に完成した障壁画が本堂に納められた。この間約十年の歳月を要した。苦労を共にした関係者が集まって、すさまじい迫力の龍を眺めながら思わず笑みを浮かべた。

  寺の障壁画というものは描く画家にとってその精神的負担は測り知れない。又依頼する寺の側も強引に進めて出来るというようなものではなく、一重に様々なご縁の賜と思っている。だからこそこの無事完成は紆余曲折を経、一層深い意味の籠もったものになった。うちの障壁画は土屋先生に描いて頂くことに最初から決まっていたのではないかとさえ感ずる。絵だけの話ではなく、どんなことにも物事が成るのにはちゃんとそれなりの深い深い意味があり、人間の薄っぺらな考えなど到底及ばないように思える。そして誰よりもこの絵の完成を、今は亡き加藤先生が喜んでくださっていると思うと、一層有り難く嬉しく感ぜられる。

 

 

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