式も 滞り無く円成し祝膳が出され、大いに話に花が咲いた。その時隠居された和尚さんがこんな興味ある話をされたのである。
先住職の時代、何がどうした訳か解らないが、寺に代々伝わっていた名刀が人に騙され、失ってしまった。生前何時もそのことを気に掛けて、何とか代わるものをと念じながらついに望みを叶えることが出来ずに亡くなってしまったのである。爾来何時かは師匠の果たせなかった願いを叶えようとずっと思うようになった。住職として少し経済的にも余力が出来た頃、丁度修行した瑞龍寺の近くが有名な関市という、名刀孫六や兼房を出した地である関係から、或る刀工を訪ねた。縷々事情を話して、「一振り刀を注文したいのですが‥‥」とたのむと、「和歌山県なら。儂の知っているこういう刀工が居るから、紹介状を書いてやるのでそこへ行ってお願いしなさい。」ということであった。言われるままに早速その刀工を訪ね依頼をすると、「作ってやるから直ぐ二百万円持って来い!しかも前払いだ!」と言われその通りにした。しば らくすると、「出来たから取りにこい!」 というので出掛けて行くと、三振りの刀を渡された。頼んだのは一振りだがな〜とお思いつつ寺に持ち帰り、やれやれこれで兎も角師匠の願いを叶える事が出来たと安堵した。すると間も無く何処で聞き付けてきたか一人の刀剣収集家がやってきて、「一振りは近くの神社に寄付しなさい。あとの一振りを自分に譲ってほしい。」ということであった。和尚さんは、では幾らでとも言わず仰る通りにし た。そうするとしばらくしてから、この間はどうもと言って四百万円を持ってきたというのである。図らずして念願の寺宝の刀を手に入れることが出来、その上差し引き二百万円得たことになったわけで、嘘のような本当の話である。さてこの話を聞いて私はこんな風に感じた。世の中はお金が中心で悉く動いて いる。″お金の無いのは首が無いのと一緒″などということばもあるくらいだ。良し悪しは別にして金が命と同じくらい大切なのである。これは何も一般社会の人達ばかりではなく我々お坊さんも同様で、″何々寺のソロバン面(ずら)″などと椰揄して言うこともあるほどだ。お坊さんを出家″と呼ぶ。それは出世間に生きるところからこう言うのである。しかしどうであろうか?今どきそんな境界を持って生きていお坊さんは居るのだ ろうか。世間もお坊さんといっても要るものは要るのだからと世の歯車に組み込まれていても何の不思議も感じない。しかしだからと言ってそういう世間の価値観のなかにどっぷりと浸かって少しも顧みることがないと言うのも如何なもの か?
伺うところによればこの和尚さんの師匠は金剛経という長文のお経を全て自分の血で写経されたそうである。余程何か心に期するものがあったと察せられる。
″二十一世紀は心の時代″などとお経の 句のように繰り返し言われているが本当にそうなのだろうか?私は人類発生以来心の時代であって、現実は益々物欲にのめり込んでゆく自分たちの、良い言い訳にしているように思えて仕方がない。いつの時代でも心を大切に生きている人は居るのだ。この師匠にして然り、またその弟子の和尚も同様、利害や打算を離れ、ただ師匠の無念を晴らしたいと いう一念でやったことの結果なのである。
|