2002年2月 迷い
 
 ある娘さんからこんな相談を受けた。彼女は大学の教育学部史学科を卒業し、今は小学校の特殊学級の講師をしている。そこの契約が今年の九月迄でその後の身の振り方に迷っているというのだ。そもそも彼女が教育学部を選んだのは教師になりたかったからではなく、家から通えて文科系、できれば英文科をと選んで受験した結果、たまたまその大学に合格した。しかし目指す英文科には入れず仕方なく史学科を選択したと言うのだ。した がってこんな状況の大学生活が楽しいはずはなく、一度は挫折しかけたこともあったらしい。しかしたまたま友人に誘われて心身障害児の施設へボランティアとして参加したのが切っ掛けとなり、やがてこういうところで働きたいと思うようになった。そこでいざ就職活動という段になって既に施設で働いている先輩に相談してみたところ、「やめときなさい!苦労の割りには金銭的にも全く報われな い。」と言われてしまった。

それでは一般 企業でもと幾つか当たってみたものの、現在のような厳しい経済情勢のもとでは就職も思う様にいかない。結局は教育学部を出たことでもあり、取り敢えず小学校の教師をすることになったというのである。こういった例は彼女ばかりではない。いま大学を出ても自分が一体何をしたいのか見つけられない若者が多く居る。これは結局それまでの知識が頭の中で本箱の本のように詰め込まれているだけで、少しも生きた知識になっていないのである。それは日本の社会が平和で恵まれているからだと言ってしまえばそれまでのことだが、困った問題である。そこで彼女に自分自身の経験からこんな話をした。
 私がこれからどう生きようかと考えたのは十八歳の頃であった。そしていろいろ悩んだ末に、このまま親や周囲から押されるようにただ何となく大学へ行くよりも、出家して死ぬまで修行して生きようと考えた。普通十八歳頃といえばもっと面白可笑しく楽しい生き方を頭に描く年頃だろうが、どういうわけか私はそういう選択をした。あれからもう四十年になるが勿論その間、幾度も挫折仕掛けたことがあった。そこをどのように克服してきたかといえば、一つにはやっぱりこの道が好きであったこと。そしてもう絶対に引き返せないという思いである。だから何時も崖っぷちに立たされているような気持で頑張ることができた。それから自分が迷ったとき適切なアドバイスをしてくれた良き先輩がいたことだ。ざっと以上の三つがあげられよう。そんな話しをしていると遥か昔のことがふっと頭をよぎった。
 私が十年ほど修行した頃のことである。 ある寺の和尚から何とも承服しかねる理不尽な扱いを受けたことがあり、一度はぶん殴ってやろうかと思った。しかしいや待て! と思い直し日頃から信頼している先輩に会い縷々事の経過を話し、どう思うかと尋ねた。すると先輩はこう答えた。「わしはお前の言う方が正しいと思うが、世間はそう思わないだろう。何故なら、どちらの言い分が正しいのかはどちらがこの社会で上なのかで判断されるからだ。悔しかったらその和尚より上に なることだ!」 その時私は心に誓った。 「よ〜し!今に見ておれ! 必ず修行をやり上げて見返してやるから。」と。皆さんは な〜んだ、修行の世界はもっと清浄なものかと思っていたのに、我々と少しも変わらないではないか。随分どろどろしたもんだな〜。″ そう思われることであろう。たしかに今となって当時を振り返ってみると、我ながらいささか品が無かったな〜と感じ、大いに反省もしている。しかし『ローマ人の物語』(塩野七生著)の中にこんな一節があったのは興味深い。 −知識人とは知を探求するだけではなく、知で勝負する生き方を選ん だ人である− どの世界でもそうだが、修行の世界では修行で勝たなければ真の修行者とは言えないのだ。それからさらに十数年後、私の思いは叶ったのである。

 何が自分に相応しい生き方なのかという問いに対する明確な答えを見いだすことは結局無いのではなかろうか。どんなに探し回ったところで青い鳥″は見つ かりはしないのだ。それより自分がその道を歩むことになったのにはそれなりの図り知れない縁があってのことなのだと気付き、そこを生きる場と思って頑張ってゆくことである。これを修行の世界で言うならば、修行そのものの中から自らの力で一条の光を兄いだし、進むべき道 を作って行く以外にはないということだ。 そういう深い思いの年月の積み重ねは、やがて やはりこれが自分の天職だったのだ。″と心の内から自然と沸き起ってくるようになるのである。若いうちは誰でも迷い悩む。しかしその葛藤から逃げ出さず、勇気を持って真正面から向き合い新たな一歩を踏み出してゆくことが大切なのである。

 

 

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