家庭の中にあっても親を尊敬する子供など殆ど無くなってしまった。親の方も親はなくとも子は育つ″とでも言うように、金稼ぎばかりに追われるようになった。一緒にすんではいても共に別の方向を向いた家庭になり、親子の関係 は弛んだ褌状態になってしまったのだ。つまり体を張った親子関係は今や弛る褌関係になったのである。
つぎに知育と徳育とも言われる教育環境の変化である。学校ではいわば偏差値すり込み教育となり、子供はひたすら点数稼ぎに狂奔しなければ全人格さえ否定されてしまうようになったのである。彼らにとっては生活の全般が偏差値に支配されているので、学校から帰ってもせっせと塾通いと成る。私の友人の和尚が寺中で一番暇なのは自分だと言っていたが、子供くらい時間に追われせかせかしている者はない。これは誠に憂うべき状態で、 昔はそんなことはなかった。
瑞龍寺辺りでも近所の子供が集まってきては土塀の上を駆けずり回ったり、裏山で栗の実を拾って皮を剥き生のままかじったりしていた。その内修行僧に見つかって追い掛け回されころんで膝を擦り剥いたりする様はまるで猿のようだった。こうした日常から子供たちは五感を鍛えていったのである。しかしどうだろうか。今日子供たちの最も興味を引くものといえばテレビゲームで、テレビの画面を相手にバーチャルリアリティー、つまり仮想現実の世界に遊ぶ。だから突出した例に 殺人という経験をしてみたかった!″などという恐ろしい子供まで現れるに至ったのである。現実と空想の区別さえついていない、みょうちきりんな人間が出来てしまった。さらに偏差値教育は大学などでちょっと知的限界にぶつかると途端に自分を見失い、何をしたら良いのか分からず、毎日が少しも面白くない空虚感・無関心におそわれてしまうといった青年達を生み出した。
また企業について言えば、曾ては終身雇用、年功序列が一般的で努力さえ怠らなければ確実に出世し経済も地位も上がっていった。しかし今日そんな呑気なことでやっていける企業など何処にもない。どんなに努力してもある日突然リストラにあい、たちまち路頭に迷う羽目になる。つまり親の進歩信仰はガラガラと崩れさり、うちの父ちゃんを見てみろ!″ということになる。それはやがて破滅信仰にとって代わり、地球が滅びるかも知れないというような極端な悲観論が蔓延した。こう考えてくるとオウムの麻原という男は誠に時代を読んでいたということになる。人々の不安心理を巧みに悪用したのである。
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