2002年3月 テクノロジー社会
 
 近年めざましいテクノロジーの発達は我々に便利さや快適さを与えてくれる。しかしそれとともに様々な生活面において変化を生じさせた。そのひとつに親子関係が挙げられる。少し前の日本では十二、三歳にもなれば一人前で、一家を支えるために職人の弟子や商家の丁稚小僧、女子なら子守奉公にでも出され大人社会に入って働いたものである。そしてそこから得るわずかばかりの賃金は親や兄弟のために大半を仕送りし、自分のために 使うことなど眼中になかった。一方親の方も沢山の子供を抱えて日々どうして飢えさせずに暮らすか、それだけで必死であった。つまり体を張って共に生きていたのである。
 現代はどうであろうか。もう飢えるなどという心配はどこにも無くなった。どう生きても喰うぐらいのことは出来る、何とも有り難い世の中になったものである。しかしその途端に親子関係が弛みだした。

家庭の中にあっても親を尊敬する子供など殆ど無くなってしまった。親の方も親はなくとも子は育つ″とでも言うように、金稼ぎばかりに追われるようになった。一緒にすんではいても共に別の方向を向いた家庭になり、親子の関係 は弛んだ褌状態になってしまったのだ。つまり体を張った親子関係は今や弛る褌関係になったのである。
 つぎに知育と徳育とも言われる教育環境の変化である。学校ではいわば偏差値すり込み教育となり、子供はひたすら点数稼ぎに狂奔しなければ全人格さえ否定されてしまうようになったのである。彼らにとっては生活の全般が偏差値に支配されているので、学校から帰ってもせっせと塾通いと成る。私の友人の和尚が寺中で一番暇なのは自分だと言っていたが、子供くらい時間に追われせかせかしている者はない。これは誠に憂うべき状態で、 昔はそんなことはなかった。
 瑞龍寺辺りでも近所の子供が集まってきては土塀の上を駆けずり回ったり、裏山で栗の実を拾って皮を剥き生のままかじったりしていた。その内修行僧に見つかって追い掛け回されころんで膝を擦り剥いたりする様はまるで猿のようだった。こうした日常から子供たちは五感を鍛えていったのである。しかしどうだろうか。今日子供たちの最も興味を引くものといえばテレビゲームで、テレビの画面を相手にバーチャルリアリティー、つまり仮想現実の世界に遊ぶ。だから突出した例に 殺人という経験をしてみたかった!″などという恐ろしい子供まで現れるに至ったのである。現実と空想の区別さえついていない、みょうちきりんな人間が出来てしまった。さらに偏差値教育は大学などでちょっと知的限界にぶつかると途端に自分を見失い、何をしたら良いのか分からず、毎日が少しも面白くない空虚感・無関心におそわれてしまうといった青年達を生み出した。
 また企業について言えば、曾ては終身雇用、年功序列が一般的で努力さえ怠らなければ確実に出世し経済も地位も上がっていった。しかし今日そんな呑気なことでやっていける企業など何処にもない。どんなに努力してもある日突然リストラにあい、たちまち路頭に迷う羽目になる。つまり親の進歩信仰はガラガラと崩れさり、うちの父ちゃんを見てみろ!″ということになる。それはやがて破滅信仰にとって代わり、地球が滅びるかも知れないというような極端な悲観論が蔓延した。こう考えてくるとオウムの麻原という男は誠に時代を読んでいたということになる。人々の不安心理を巧みに悪用したのである。

 さて貧しい時代には金持ちになりたいとか、大きい家に住みたいとか、一辺は外国旅行をしてみたいとか、具体的な目標が明確にあった。しかし今日では何もかもが豊かになって、誰もがもうハングリーに成りようが無い。だから満たされようもないという前代未聞の状況が広がってきたのである。そこで我々はこういう時代にそくした生き方を新たに作り出してゆかなければならない。ところが現実は、親は子供に益々甘くなる一方である。いとも簡単に車を買い与えたり、海外旅行などにもほいほいと行かせている。これは現在、社会の中心を担っている人たちが貧しい時代に育ち、したがって心まで物で培われた価値観で世の中を見ているからである。世界に目を向ければもうそんな時代はとっくに終わってしまっている。聞くところによればアメリカなどではどんな金持ちの息子でも小使いなどは一定金額しか与えず、欲しければア ルバイトをして稼げというのが一般的のようだ。
 物が豊かにあるということはどういうことなのか、我々はここでもう一度真剣に考え直さなければならないのではないか。社会も企業も益々厳しい時代をむかえ新たな価値観を構築してゆくことが目下の急務である。

 

 

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