2002年4月 死と向き合う
 
 近年自殺者が急激に増えている。聞くところによれば年間凡そ二万三千人もの尊い命が失われているらしい。これは実際に亡くなった人の数で、自殺はしたものの発見後速やかな救命治療が施され一命を取り留めた人の数はこの四倍の、約十万人にのぼるというのだから驚かされる。交通戦争とまで言われる自動車事故による死亡者が年間一万人で、警察を始め関係者は何かと一万人の大台を越えないように苦心惨憺している状況を考えても、自殺が十万人というのは驚くべき数字である。最近は企業のリストラや厳しい職場環境に耐えられなくなった中高年の自殺が増えているというような話も耳にするが、また一方では子供の自殺も増加しているという深刻な問題も指摘されている。或る調査によれば小学校一年生の十パーセント、六年生では三十パーセント、何と高校三年生では五十パーセントもの生徒が一度は自殺を考えたことがあるというのである。本当にそんなことがあるのだろうかと耳を疑いたくなる数字だ。

 世界中には現在も尚、爆弾が飛び交う内戦に明け暮れている地域がある。また埋設された地雷などによって数多くの罪無き人々が命を落としている。それに引き替え日本では、やれレジャーだスポーツだお祭りだと平和の真っ只中である。しかし一方ではこれだけ多くの人たちが自ら命を落とすのである。これはいわば心の内なる戦争、心の内戦″とでも言うべきである。では何故斯くも自殺者が多いのだろうか、その原因を考えてみなければならない。理由はいろいろあるだろうが、その一つとして私は宗教教育が成されていないことが大いに問題なのではないかと思う。
 お釈迦様の有名な言葉に天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)″と言うのがある。全宇宙で唯一人、 誰とも同じではない唯一無二の、この私という存在。我々は小さいときから無意識のうちに他との比較の中で自分の存在を考えるようになった。そこで勝った負けた、損した得した、上だ下だなどという価値観が生まれ、そこから自分のことを考えるようになってしまった。しかし私という存在は決してそんなものではない。長者長法身短者短法身(ちょうじゃちょうほっしんたんじゃたんほっしん)という禅語があるように、長い者は長いなりに完全無欠、短い者は短いなりに完全無欠の存在なのである。そういう絶対の自己なのだと解れば人生に絶望したり落伍したりすることはないのだ。
 自分の命が軽くしか考えられないということは他人の命も軽んぜられるということで、これは表裏一体である。したがって自殺者が増えるというのは一方ではまた殺人も増えるということにもなるのである。これには学校で小さいときから正しい宗教教育をし、命の尊さを教え込まなければならないのではないだろうか。一宗一派に偏することの弊害があるなら、信教の自由で全ての宗教に参加してもらい子供達の自由な考えで選べば良い。
 また原因としてもう一つ考えられるのは核家族が増えたことにより、家には老人たちが居なくなり死の現場に立ち会うことが少なくなったこともある・・。人間が老いさらばえてゆく哀れさ醜さを目の当たりにすることがなくなり、本当の人間の姿が解らなくなってしまったのだ。現代社会はこのように社会の表面から「死」 が覆い隠され、「抽象的な死」が一人歩きをするようになったのである。
  昔私がまだ雲水修行をしていた頃、河合という山奥の村へ葬儀の手伝いに出かけたことがあった。その地方では家で途中まで行い、一旦中断して葬送の列を作ると、棺桶を担ぎぞろぞろと村外れの小高い丘へ移動する。そこには中心に石で出来た棺桶を置く台があって、引き続き引導法語が唱えられた。傍らには堆く薪が積み上げられ、葬儀の全てが終わるとすぐ棺桶を薪の上に載せ、村人全ての老若男女が見つめる中、火が点ぜられた。見る見るうちに真っ赤な炎が立ち上がり棺桶もろとも死体が燃えた。私はあまりの生々しさに憤然とした思いに駆られた。

それに比べ現代の葬儀は冷暖房の利いた奇麗な施設で、お互い手を汚さずに段取り良く行われる。しかし現実はたとえ見るに忍びないようなことでも死とじかに向き合い、死とは何と儚く虚しいものであるか実感しなければならないのだ。重要なことは死を見つめることがよりよく生きてゆくことに繋がることである。人生如何に生きるべきか、常に自己の内に向かって問い続けなければならない。一度の挫折で、もう死より外は無いと決めつけるのではなく、そう感じている自己とは何者ぞと問いかけ、かけがえのない自分の存在は決して他によって左右されるものではないことに気づいて再出発を遂げてもらいたいものである。

 

 

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