2002年5月 宇宙のゆらぎ
 
 私の友人、川上貴光(よしてる)君の父親は野球の監督で有名な川上哲治氏である。私がまだ道場で修行していた当時巨人軍は九連覇中のまさに黄金時代であった。にも拘わらず川上氏は毎年十二月の一日から七日まで行なわれる道場での大接心修行は必ず参加されていた。普段とはかけはなれた道場での日々はさぞ大変だったろうと思うが、十数年に渡って続けられたのには頭が下がる。爾来共に禅堂で坐った修行仲間ということで、何かとお付き合いさせて頂き何とも有り難いことである。
 時は流れ、今から十年ほど前、ひょんなことから木曽の御嶽山中の滝行に出掛けるようになった。偶然にもその同好仲間に貴光君がいた。昔、哲治氏が道場へまだ大学生だった息子さんを伴って来られたことがあり、それが彼だった訳で思わぬ所で再会することとなった。ある年の滝行でのこと、休憩時間にイヤホンで頻りに音楽を聴いている。一体何を聴いているのかと尋ねると高橋真梨子だと言う。

「とてもいいですよ!今度この歌手について書きますが、CDをお送りしますから是非聴いてください」と言われ、間もなくして彼からCDが送られてきた。初めは義理で聴いていたのが何度か聴くうちに段々好きになってきた。理由はよく解からないが不思議と心にしみた。しばらくして彼から「今度名古屋で コンサートが開かれますのでチケットをお送りします。是非お出かけください。」という手紙と入場券が送られてきた。私はそういったライブには今まで一度も行ったことがなかったので、ともかく興味津々であった。待ち兼ねたように当日出掛けてみると観客の殆どが四、五十代のご婦人方で、もちろん若者のように立ち上がって踊りだすというようなことはないがその熱気たるや凄まじいものであった。一五五センチの彼女の小さな体から 発せられるエネルギッシュな歌声に観客の多くは魅入られているという感じである。
 そんなことがあって又しばらくして今度は出版社から一冊の本が送られてきた。川上貴光著高橋真梨子−とびらを明けてー″である。読み進むうち、中に大変興味の引かれる話しがあった。玉川大学の数理芸術学というユニークな学問をされている佐治晴夫氏の説によれば、人間が心地よいと感ずるのには必ず一定の法則があるというのだ。たとえば渚に寄せる波の音や小川のせせらぎ、そよ風 等々誰でも共通して心地よいと感ずるものがある。それは何故なのかというと、自然界は ゆらぎ″ に満ちているそうで、このゆらぎと波長が合致したとき心地よいと感ずるのだそうだ。この理論は自然界の現象だけでなく音楽や美術、絵画、彫刻、建築など多岐にわたって証明されるというのである。
 この宇宙のゆらぎということをある人に話したら、こういうことがあると聞かされた。この世の中の全ての物質は細かく分析して行くとそれはつまり原子という小さな球状の集まりなのだという。しかしよく調べると、その球状のものの中心には核があり、周りにエレクトロンと一体となったそのゆらぎの輪が球状に見えていたのだと解ってきた。つまり球状のものは無かったのである。更に研究が進むと、そのニュークリアーと言われた核も実はニュートロンとプロトンという二つの粒子のゆらぎの輪であることが解ってきた。つまりニュークリアーも無かったのである。そして更に研究が進むとこの二つの粒子もじつはクオークという構正子のゆらぎの輪であったことが解った。つまりニュートロンもプロトンも無かったのである。現在の科学ではここまで証明されているというのだが、多分やがてこのクオークも無かったと証明される日がくるだろう。こうしてみると全ての物質は限りなく無″なのである。

 しかし、お釈迦さまは今から二千五百年も前に全ては空だと看破しているのだから驚かされる。宇宙の全てのものは揺らいでいるのだ。そして地球上で何十億年も前に微生物から発した我々の細胞のどこかに、人類発祥の起源までさか昇ってこのゆらぎが組み込まれているのではないかということである。だから宇宙のゆらぎと合致するものに出会うと自然に心地よいと感ずるのである。このゆらぎをf分の一という数式に表したのが佐治晴夫氏なのである。氏によれば法隆寺五重塔の優美な曲線、またケネディや田中角栄氏の演説のリズム、北島三郎の演歌のリズム等、調べてゆくと皆このf分の一のリズムと合致するらしい。
 さて難しい理屈はともかくとして、小宇宙ふところにして坐禅かなである。何かと日頃慌ただしくお過ごしの現代人には是非坐禅をお薦めしたい。じっと心を澄ませ宇宙のゆらぎと一体になる心地良さは格別である。その上さらに真実は空″だと悟って頂ければこの上ないことだと思っている。

 

 

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