2002年6月 霊魂不滅
 
 ある人から霊魂は果たして不滅なのかという質問を受けた。たとえこの肉体は滅んでも自分の魂は残って子孫に伝わってゆく。今まで何とかやってこられたのは自分一人の力ではなく先祖のお陰である。このように人間の思いは必ず滅せずに永遠に伝わってゆくと思うが、如何お考えでしょうかと言う質問である。私もこの質問をされた方と同様、日頃から先祖に守られていると感じることが多々あるので心情的には、「そうです霊魂は不滅です。」 と申し上げたいところだが、結論から言えばそんなものは何も無いと言わざるを得ない。
 私事で恐縮だが数年前母を九十三で亡くした。生前は神奈川の在所から遠い路を厭わず季節の変わり目には必ず寺まで出掛けてきては私の箪笥の中を入れ替えていってくれた。古いものは丹念に繕い一シーズンで目茶苦茶になった中身を整頓して次の季節に困らないようにしてくれた。

「お前は一人身だから誰もやってくれる人が居ないからね〜。」「たまに来たんだからそんなに毎日繕い物ばかりしていないで何処か温泉にでも行こうか?」と誘うと、何時もここが一番良いと言ってせっせと繕い物をして、それが済めばついっと帰って行った。そんな時ぽつんと「死んだらお前の側に居たいから何処かに骨を埋めてね。」と言っていたのを思い出し、願い通り私の居屋の前 の椿の木の下に小さな観音石像を作り、今そこに眠っている。毎朝の勤行が済むと一本線香を立て短いお経を挙げる。何 処かへ出掛けたりまた帰った時には何時も、観音石像になった母に挨拶をしている。嬉しいときも困ったときも私の中には母が今も尚生きているのである。だからこの質問の方と同様に私には母の魂が脈々と伝わっていると言いたいところだが、何も無いのである。ここのところをもう少し厳密に言えば有るといえば有るし無いといえば無いと言える。何とかこの伝えにくいものを伝える方法はないか考えているうちに、ふっとこんな歌が浮かんだ。惚れていりやこそ悋気もするが何でもない人何でもない″よく心を鏡に譬えるが、鏡はその通り裏実の姿を映しだす。赤い薔薇の花がくれば赤い薔薇の花を映す。汚い塵がくれば汚い塵を映す。しかしそれらが去って行けば跡には何も残らない。つまり赤い花は有るがしかし無いのである。無いのだが有るという不思議なものがそのに在るのだ。姿、 形も無く一体何処にあるのかも解ら無いその正体不明なるものを無と言い、これをまた仏性とも言う。自分の中に何時もあって必要に応じて現れる。これは万人が既に生まれたときから体に組み込まれているものなのである。
 そこで先程の話に戻すと、霊魂があると思うのは、つまりそういうふうに感じる自分がそこに在るということなのである。もうこの世には居ない母と私は毎日お喋りもし相談もすると言ったが、それはそういう母を思う私という存在がそこに在るということなのだ。しかし鏡には本来何も無いのである。そこの道理をきちんとわきまえていないと結局霊魂がまた新たな妄想を生み、その妄想のために自分ががんじがらめに縛られることになる。何物にも束縛されず本来自由であるべき心の世界が誠に狭苦しく柔軟性を失ったものになってしまうのである。一つの観念に捉われ固まってしまった心は、心本来の姿ではない。
 以前こんなことがあった。或る婦人から悪霊に取り憑かれたので般若心経を壱千巻挙げて祈祷して欲しいと頼まれた。聞けば次々に悪いことばかり続くので或る祈祷師に観てもらったところ、この土地の以前の持ち主の霊が取り憑いて、それが災いを齎らしているので悪霊払いの祈祷をしなければいけないと言われたという。

既に三年以上も何回となく祈祷を続けてきて、その間莫大なお金を注ぎ込んだというから、これには驚いた。人生には良いこと悪いことが糾える縄のごとく繰り返す。確かに短期間に限定してみれば、何故私だけこんなに不幸ばかり続くのだろうと暗い気持になることがある。しかし雨ばかり降り続くことが無いのと同様、悪いことと良いことは相半ばである。それにもかかわらず自分の人生が悪いことの連続だとしか思えないのは、そのようにしか心の鏡に映し出すことが出来ない自分の側に問題があるのだ。だから悪い奴に付け込まれまんまと大金を奪われるということになるのである。
 問題は無を知ることだ。結局何も無いということを知ることである。そしてもし自分の魂を死後も子や孫に伝えたいと思うなら、己の存在を超えたところにある見えざる命の繋がりを知り、感謝せずにはいられないような心を持った子孫を残すことである。全ては自らの心の投影なのだから。

 

 

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