「お前は一人身だから誰もやってくれる人が居ないからね〜。」「たまに来たんだからそんなに毎日繕い物ばかりしていないで何処か温泉にでも行こうか?」と誘うと、何時もここが一番良いと言ってせっせと繕い物をして、それが済めばついっと帰って行った。そんな時ぽつんと「死んだらお前の側に居たいから何処かに骨を埋めてね。」と言っていたのを思い出し、願い通り私の居屋の前 の椿の木の下に小さな観音石像を作り、今そこに眠っている。毎朝の勤行が済むと一本線香を立て短いお経を挙げる。何 処かへ出掛けたりまた帰った時には何時も、観音石像になった母に挨拶をしている。嬉しいときも困ったときも私の中には母が今も尚生きているのである。だからこの質問の方と同様に私には母の魂が脈々と伝わっていると言いたいところだが、何も無いのである。ここのところをもう少し厳密に言えば有るといえば有るし無いといえば無いと言える。何とかこの伝えにくいものを伝える方法はないか考えているうちに、ふっとこんな歌が浮かんだ。惚れていりやこそ悋気もするが何でもない人何でもない″よく心を鏡に譬えるが、鏡はその通り裏実の姿を映しだす。赤い薔薇の花がくれば赤い薔薇の花を映す。汚い塵がくれば汚い塵を映す。しかしそれらが去って行けば跡には何も残らない。つまり赤い花は有るがしかし無いのである。無いのだが有るという不思議なものがそのに在るのだ。姿、 形も無く一体何処にあるのかも解ら無いその正体不明なるものを無と言い、これをまた仏性とも言う。自分の中に何時もあって必要に応じて現れる。これは万人が既に生まれたときから体に組み込まれているものなのである。
そこで先程の話に戻すと、霊魂があると思うのは、つまりそういうふうに感じる自分がそこに在るということなのである。もうこの世には居ない母と私は毎日お喋りもし相談もすると言ったが、それはそういう母を思う私という存在がそこに在るということなのだ。しかし鏡には本来何も無いのである。そこの道理をきちんとわきまえていないと結局霊魂がまた新たな妄想を生み、その妄想のために自分ががんじがらめに縛られることになる。何物にも束縛されず本来自由であるべき心の世界が誠に狭苦しく柔軟性を失ったものになってしまうのである。一つの観念に捉われ固まってしまった心は、心本来の姿ではない。
以前こんなことがあった。或る婦人から悪霊に取り憑かれたので般若心経を壱千巻挙げて祈祷して欲しいと頼まれた。聞けば次々に悪いことばかり続くので或る祈祷師に観てもらったところ、この土地の以前の持ち主の霊が取り憑いて、それが災いを齎らしているので悪霊払いの祈祷をしなければいけないと言われたという。
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