清らかに澄んでいないことを嘆き怒っているだけでは生きては行けぬ。幸い水が澄んだら自分の大 切な魂を洗え、ということであろうか。
ところで私が屈原を心に浮かべたのにはいささか理由がある。つい昨日まで安居会 (あんごえ)という講習会がうちの寺を会場に開かれていた。臨齊宗では誰でも一度は必ず専門道場に入門して一定期間修行を積まなければ住職資格が得られない制度になっている。しかしそこに便法を設けて、修行しなくとも安居会に何回か参加すれば同等の資格が与えられるというものである。目下本山では夏に十日間、岐阜教区では二泊三日で開催さ れ、どちらも満員盛況、希望者の余りの多さに今年からは定員を決め、それ以上は断るというような話も聞いている。ともかく合計八十名くらいの人が道場での修行はせずに住職資格を得ようとしているわけである。聞くところによればもともとこの制度が出来たのは、終戦直後のこと、修行年令のとき戦地に居たためいざ復員しても寺に入る資格がなく途方に暮れていた多くの僧侶に対して、便法として考えだされたものらしい。だから当然時限立法でいづれは消滅すべき制度なのである。それがどういう理由か当初の精神からはおよそかけ離れ今日までづっと存続し、今では修行したくない者の隠れ蓑のようにさえ成ってしまった。ならばこんなのはさっさと廃めてしまえば良いと思うのだが、それがそう簡単にはいかぬものらしい。
私は教団経営などという難しいことはよく解らないが、こういう会が専門に修行すべき道場で行われること自体その無神経さを疑う。さらには雲水を修行させるために苦心している私に、この連中に無門関を提唱せよと云うのだから、一体何を考えているのか解らない。石に向かって説法、という言葉もあるからそれなりに意味もあるのか知れないが、講座台の上から下に並ぶ講習生の長髪に墨染めの法衣姿の何とおぞましいことか。矢張り青々と剃り上げた頭に墨染めの法衣だから見られるのである。実に不快な三日間を過ごし、私の脳裏にふっと屈原のことが浮かんだのである。
またこんなこともあった。昔私のところで修行していた者が目出度く晋山式をすることになった。そこで招かれ、大喜びの師匠や檀家を目の前に祝辞を述べた。しかしこの者は当時もっと修行を続けるように私が再三再四説得したにも拘わらず全く耳を貸さずに、たった一年で帰った男なのである。さらにその後一度も道場に顔も出すことなく、毎年の開山忌にさえ奉仕もせず、不義理のかぎりを尽くしていたのである。そのような者の晋山 式など何が目出度いことか!屈原ならずとも腹の立つことが多いこの頃である。
さて話は変わって私が道場で修行していた頃、門前に大変立派な尼僧さんが居られた。私もどのくらい多くの策励を受けたか知れぬ。修行の節目でこれから如何に進むべきかの岐路に立った時、この尼僧さんの生きる姿から多くを学んだ。一生清貧に甘んじ世にも出ず田舎の貧乏寺で畢った方だが、今でもその時受けた薫陶を忘れぬ。地位や名誉やお金にはたとえ恵まれなくとも、お坊さんとして立派な人の価値は決して輝きを失うものではない。それはちょうど暗闇を照らす灯台のようなものだ。その光を頼りに間違いの無い航路を進もうと考える者が居るかぎり輝き続けていたい。私はこれからもそういう生き方をしたいと心から願っている。
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