2002年11月 安居会(あんごえ)
 
 中国戦国時代の屈原は清廉潔白な人であった。楚の懐王に重んじられ、三閭大夫となり国政を執ってすぐれた手腕を発揮した。しかしその一徹で正義感溢れる性格を快く思わない同列の大夫から妬まれることとなり、懐王の子、襄王が立つに及んで讒訴され、国を追われ辺境の地長沙へ左遷され流浪の身となった。屈原は川のほとりに一人たち天を仰ぎ濁世を嘆いた。すると傍らの一人の漁師が云う。「確かにそうかもしれないが、濁世にひ とり、高く己れを守って生きる以外の道はまったくお考えにならなかったのですか。」 すると屈原は断固として、「この身に世俗の汚れを受けるくらいなら川の流れに身を投じて魚の餌になるはうがましだ。」 と言った。漁師は舟べりを叩き歌う。「滄浪の水清らかに澄んだときは自分の冠のひもを洗えば良い。もし滄浪の水が濁ったときは自分の足を洗えば良い。」 と。世の中はときに澄みときに濁る。川の流れと同様、おおむね濁っているときの方がはるかに多い。

清らかに澄んでいないことを嘆き怒っているだけでは生きては行けぬ。幸い水が澄んだら自分の大 切な魂を洗え、ということであろうか。
 ところで私が屈原を心に浮かべたのにはいささか理由がある。つい昨日まで安居会 (あんごえ)という講習会がうちの寺を会場に開かれていた。臨齊宗では誰でも一度は必ず専門道場に入門して一定期間修行を積まなければ住職資格が得られない制度になっている。しかしそこに便法を設けて、修行しなくとも安居会に何回か参加すれば同等の資格が与えられるというものである。目下本山では夏に十日間、岐阜教区では二泊三日で開催さ れ、どちらも満員盛況、希望者の余りの多さに今年からは定員を決め、それ以上は断るというような話も聞いている。ともかく合計八十名くらいの人が道場での修行はせずに住職資格を得ようとしているわけである。聞くところによればもともとこの制度が出来たのは、終戦直後のこと、修行年令のとき戦地に居たためいざ復員しても寺に入る資格がなく途方に暮れていた多くの僧侶に対して、便法として考えだされたものらしい。だから当然時限立法でいづれは消滅すべき制度なのである。それがどういう理由か当初の精神からはおよそかけ離れ今日までづっと存続し、今では修行したくない者の隠れ蓑のようにさえ成ってしまった。ならばこんなのはさっさと廃めてしまえば良いと思うのだが、それがそう簡単にはいかぬものらしい。
 私は教団経営などという難しいことはよく解らないが、こういう会が専門に修行すべき道場で行われること自体その無神経さを疑う。さらには雲水を修行させるために苦心している私に、この連中に無門関を提唱せよと云うのだから、一体何を考えているのか解らない。石に向かって説法、という言葉もあるからそれなりに意味もあるのか知れないが、講座台の上から下に並ぶ講習生の長髪に墨染めの法衣姿の何とおぞましいことか。矢張り青々と剃り上げた頭に墨染めの法衣だから見られるのである。実に不快な三日間を過ごし、私の脳裏にふっと屈原のことが浮かんだのである。
 またこんなこともあった。昔私のところで修行していた者が目出度く晋山式をすることになった。そこで招かれ、大喜びの師匠や檀家を目の前に祝辞を述べた。しかしこの者は当時もっと修行を続けるように私が再三再四説得したにも拘わらず全く耳を貸さずに、たった一年で帰った男なのである。さらにその後一度も道場に顔も出すことなく、毎年の開山忌にさえ奉仕もせず、不義理のかぎりを尽くしていたのである。そのような者の晋山 式など何が目出度いことか!屈原ならずとも腹の立つことが多いこの頃である。
 さて話は変わって私が道場で修行していた頃、門前に大変立派な尼僧さんが居られた。私もどのくらい多くの策励を受けたか知れぬ。修行の節目でこれから如何に進むべきかの岐路に立った時、この尼僧さんの生きる姿から多くを学んだ。一生清貧に甘んじ世にも出ず田舎の貧乏寺で畢った方だが、今でもその時受けた薫陶を忘れぬ。地位や名誉やお金にはたとえ恵まれなくとも、お坊さんとして立派な人の価値は決して輝きを失うものではない。それはちょうど暗闇を照らす灯台のようなものだ。その光を頼りに間違いの無い航路を進もうと考える者が居るかぎり輝き続けていたい。私はこれからもそういう生き方をしたいと心から願っている。

 藤村の詩に「滄浪の波間に落つる声聞けばきみは世に鳴くほととぎすかな、家破れ世は遷るとも夏くれば山青く水おのずから流れ行く‥‥。」とある。僧侶として世俗の価値観とは違う、真実の人生を歩まなければ生きて行く価値はないと思っている。

 

 

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