2002年12月 献茶式
 
 毎年十一月一日、伊奈波神社で松蔭会岐阜支部主催の献茶式が行われる。これは大正時代以来既に八十年近くも続いている伝統の行事で、私も毎年参列させていただいている。生憎僧堂はこの日が入制大摂心初日で、午前八時半からの講座を終えると息せき切って神社の本殿まで長い階段を駆け上がり、十時からの行事に滑り込みでこの日もようやく間に合った。本殿は周囲を鬱蒼とした木々に覆われ、まことに良い雰囲気のところにある。 霜月に入ると途端に雨降りの日も多く小寒くなる。案の定今年もどんよりと曇り、時折冷たい風が吹き抜けていた。一般に寺と神社の寒いのは夙に有名だが、とりわけ神社の場合は戸障子一つない吹きさらしの状態で、四十人ほどの参詣者は足腰から背筋の芯まで冷え切った。

 席に着いて間もなく家元のお点前が始まり、立ちのぼる湯気、香が焚かれ辺り一面ほのかに甘い香りが漂う。私は静かに目を閉じた。周囲の木立からは降り注ぐような小鳥の囀りが聞こえる。濃茶、薄茶とお点前は進み鄭重に家元から神官へと手渡され神前へ供えられた。次に家元が正面に進み、我々も一緒に深々と頭を垂れ二拍した。
 私は何時も思うのだが、神官さんたちの柏手はカキンという乾いた音がして誠に美しい。それに比べて一般の者がするとどうしてああもばしゃという鈍い音になるのだろう。毎日の散歩でいつも伊奈波神社へお詣りしているので、柏手の時、私もいろいろ研究してみた。要は左手の平を目一杯そり返し、丁度太鼓の皮がばんばんに張ってあるような要領で、そこへ右手五本指をきっちり揃えて柏つと確かに似たような昔がする。しかし神官さんの手付きを眺めるとそんな不自然な打ち方はしていない。話が横道に逸れた、続けよう。
 この時ふっと私の頭によぎるものがあった。こんなにも鄭重に献茶をし深々と頭を垂れ柏手するのは一体誰に向かってやっているのだろうか。当然のことながらそれは神さまに対してであろう。では我々にとっての神とは何なのだろう。聞けば伊奈波神社はお伊勢さんの系列と言うから、ご神体は八咫鏡(やたのかがみ)ということになるのだろうか。ところで鏡は自分の側には何も無いから常に真実を映し出す。ここで言うご神体とは当然、物質的な鏡を指しているのではなく、鏡 が映し出した真実そのものを我々は神と言っているのである。つまり神そのものに実体は無く、その何も無い世界、つまり異世界との交流の儀式なのである。我々はどろどろした人間世界を離れ、何も無い世界とじかに向き合い、最高の格式を以て恭しく茶を献じたのである。これは何と素晴らしいことか。しかもごく一般の人たちがそういう世界と交流し、そこに無上の価値を見いだしているのである。考えてみると八十年もの永きに渡って、様々な価値観に揺らいだ二十世紀を、微動だにせずこの世界観で生き抜いてきたのである。日本人は何と素晴らしいことか。とかく無宗教と言われ、ことに戦後、心の荒廃が嘆かれているが、私は決して日本人は駄目になったとは思わない。自分たちの良いところに気が付いていないだけなのである。
 天地いっぱいになって降り注ぐ小鳥たちの声を聞きながら、さらに私の心を巡った思いは生命の根源である。無≠ニは別の角度から申し上げれば生命(いのち)と言うことである。それを観念として捉えるのではなく、具体的な献茶式という行事を通して、その見えない世界を体現してゆく方便を持っているというのが良い。これは先人の知恵である。

 戦前、国粋主義に神道が利用され、誤った解釈がなされた時期もあったが、神にそんな現世の汚れはない。勝手に神の名前を悪用しただけで、それは神本来の姿ではない。何故なら先ほども申し上げたとおり神は 無≠ネのだから。こう言うとすぐ禅僧の我田引水的理屈のように思われるか知れないが、この無≠ヘ日本人の心の底にずっと流れ続けているものなのだ。何事のおわしますかは知らねども忝けなさに涙こぼるる≠ニいう歌もあるように、或る仏教学者はこれを日本人が誰でも持っている天然の無常観≠ニ言っている。
 今回の献茶式に参列された多くの方々も多分無意識のうちに私と同様な思いを持たれたことであろう。誰かのためにだったら何か見返りを求めたり、それがまた二次的新たな妄想を作り出す元になる。しかし無≠「という異世界に向かって、恰も虚空に矢を放つがごとく行われる献茶式は、考えれば考えるほど何と素晴らしい伝統行事ではないかと、思いを新たにしたのである。

 

 

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