私個人の考えとしては、これからの尼僧志願者の場合は従来までとは異なり、さまざまな社会遍歴の未に、自ら志を立てて出家する方が多いのではなかろうか、それならば京都や鎌倉のようにイメージ的にも雰囲気のある場所の方がよりアピールするのではないかと考え、その旨総長さんにも具申した。しかし何処も旨くいかず結果、当山と大変近い関係の尼寺が指名されることとなった。其処は曾て尼衆学林といって、中学卒業の尼僧の卵を預かり、僧侶になるための修行や教育を半世紀以上にも渡って続けてきた寺であった。しかしこの三十数年間というもの一人の入門者も無く、事実上は開店休業状態で関係者も半ば諦めかけていた。そこへにわかにこの話が舞い込んできたわけで、そのためにまずは指導者が肝心とばかり、是非師家をお願いしたいという話であった。聞けば直接のお世話は参禅と講座ということで、当山の僧堂の時間帯に併せて尼僧堂も時間割りを組めばさほどご迷惑もかけませんので、という話に半分仕方なく同意した。
さていざ計画が進みだすと、まずは禅堂や宿舎の建設資金をどう調達するのか、さらには寝起きを共にして入門者を指導して行く指導員、規矩はどうするのか等開単迄にはしなければならない様々な問題が山積していた。私が頼まれたのは尼僧堂が出来て新しい入門者に必要な指導をすれば良いということだったはずが何時の間にやらこれらの難問全てに頭を悩ませる羽目になってしまった。もちろん資金調達のための寄付金を仰ぐという事 柄の殆どは本山側の問題で私がどうということはないのだが、それにしても皆に先駆けて高額な寄付金をださなければならないような状況になってきた訳である。細かい話では禅堂内で使う香盤や線香たてに至るまでである。この間も禅堂建設のための材料検査に白鳥という山奥まで出掛けたこともあった。
こんなことの連続で、私の心の中にはいつしかだんだん憤懣やるかたない思いが湧いてきていた。しまった!あの時きっぱりと、師家を断れば良かったな〜と。そんな或る日、雲水と共に禅堂で坐っていると、ふっと頭をよぎるものがあった。まだ私が僧堂で修行をはじめて三、四年目の頃のことである。火の玉のような勢いでやってきたそれまでの修行にちょっと緩みが見え、これからの行く末や禅の修行そのものに対しても疑問を抱き始 めていた。また、僧堂という狭い所で二十四時間同じ顔を突き合わせてゆくことにも鬱陶しさを感じ、いろいろな意味で崖っ渊に立たされたような心境になった。そんなとき門前の尼寺に大変修行の出来た尼僧さんがおられて、僧堂の雲水は入れ変わり立ち変わり出入りしては繕い物や、果ては法衣まで縫ってもらったりしていた。私が四九日に顔を出すと何時も炊き落としを七輪に一杯入れ、茹でた小芋とその脇には生姜醤油が用意してあっ た。焼いた小芋ですきっ腹を満たして、冬の冷えきった手を七輪にかざすと、こんな幸せなことがこの世にあるかしらと自然に思えた。
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