2003年2月 徳を積む
 
 僧堂では同期に入門したものを同夏(どうげ)と言う。お互い修行のために命がけで切瑳琢磨したので、共に戦場をくぐり抜けた戦友のような特別な思い入れがあり、道場を去って既に三十数年も経つが、今でも年に一回くらいは会って旧交を温めている。同夏は大抵数人というのが相場だが、私が入った年に限って二十二人もいっぺんに入門した。それまで居た雲水が十数人なのだから、新入生の方が数で圧倒してしまい、上の者もうかう か出来ないような雰囲気になった。自ずから道場も活況を呈し、真面目に修行する者、また人の目を盗んで悪いことをする者などいろいろで、それは賑やかなことだった。しかしこれだけ入った雲水も翌年四月にはその半数が帰ってしまい、その翌年にはまた半分に減り、 四年経ったときには私ともう一人のたった二人切りになってしまった。

 自分で言うのも可笑しいが、私はどちらかというと優しい性格なのだが、同夏のJ師は実に厳しい人だった。それは他に対してもまた自分自身に対しても一切の妥協は許さないというふうだった。道場では半年間禅堂内でもっぱら坐禅ばかり組む修行をすると次の半年は庫裏の方に移って、今度は食事の支度やお経の準備、老師のお世話等実務的なことをする。これを常住(じょうじゅう)といい、二人一組になって半年交代で繰り返すので ある。ところが彼と一緒に寮舎に入った者は二、三ケ月もすると大抵逃亡した。つまり居たたまれづ夜密かに道場を逃げ出してしまうのである。一端そんなことをしたら二度と復帰は困難となるばかりではなく、将来お坊さんとしてこの世界でやってゆくことも出来なくなるかも知れないほどの重大事である。それをも覚悟で逃亡という最後の手段を選ばなければならなかったのだから、思えば気の毒なことである。それ程彼の下での修行は過酷を極めた。しかしどんな理由が有ろうとも逃げ出した方が負けなのだ。と言うとなんだかびしびしとやった彼が醜い人のように思われるかも知れないが、決してそんなことはない。彼の素晴らしいのはこの厳しさを自分自身に対しても科したところである。多少ヒステリックな点は問題だったが、ともかく修行はあらゆる困難を乗り越えてゆかなければならないのだ。
 自他一如≠アれが彼の口癖で、それは徹底していた。例えば顔を拭くタオルで廊下も拭けば果ては便所のきんかくしの糞も拭うといった具合で、とても普通ではそんな不潔なことは出来ないと思うだろう。しかし彼は平気でそれをやり人にも強制した。これも全て自他一如である。自分と他が一つになっていれば廊下もきんかくしも自分の顔と一緒であり、何が汚いものか!である。しかし実際そ うは言っても昨日糞を拭いた同じタオルで翌朝自分の顔を拭けるかと言えばそう易々と出来るものではない。それは一回一回徹底的にタオルを綺麗に洗っていないからだ!と言い、ごしごしすり切れるほど洗う。だからタオルはたちまちぼろぼろになった。私は要領専一だったからそんな彼の主義など無視していつもタオルは三枚用意し、見られぬように上手にすり替えてはいかにも一枚でやっているようにしていた。
 田舎僧堂だったから、よく村の老人達が僧堂にやってきては一緒にお茶を飲みながらお喋りをすることがあった。そんなときでも、”あの人は将来きっと老師さまになる人だ=@と言っていたことがあった。それ程までに彼の修行ぶりは他を抜きんでていたのである。
 彼は私と共に二十年も修行し何度も道場の師家となる道が開けたにも拘わらず、現在は結婚してしまい九州の片田舎で自坊を守っている。私のような出来損ないが師家の端くれで頑張っているのからすれば、彼こそ大道場で活躍してもらわなければならない人材だ。だがそうなっていないのは何故なのだろうか。

 自他一如という考え方自体は決して間違っていない。しかし何故それを強圧的に下の者に強いるのだろうか。確かに修行に親切と言えなくもないが、何処か異常に偏った心を感じる。たとえ誰一人省みるものが無かろうと、或いは人に嘲笑されようとも密かに黙々とやって行くことは出来なかったのだろうか。修行とは自らの内に向かって自分に厳しく問いかけてゆくものだから、その点彼の修行は矢張り間違っていたと言わざるを得ない。 勿論弱い自分に鞭打って頑張らなければ修行は成り立たないが、それだけが心の世界の全てではないはずだ。悲しいほど弱くどうしようもないこの私という存在を素直に認め、だからこそ我が身を滅し去り、人のために陰徳を積んでゆくことこそが大切なのだ。いやいやこれは彼の問題ではない。私自身の戒めである。

 

 

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