2003年3月 重源と快慶
 
奈良の高名なY寺の執事長さんから大変興味ある話を聞いた。
 或る時石灯籠屋さんがやってきて、貴寺のあの灯籠は奈良時代を代表する大変立派なものであるから是非私に修理させて欲しい。ついてはいろいろ調べると、過去に行われた何回かの修理は残念ながら時代考証されずにてんでバラバラに直されてしまっている。創建当初の奈良時代に全て合わせて直せば、日本でも十指に入るほどの貴重な灯籠になります、ということであった。彼の寺には他に幾ら でも奈良時代の優れた物があるので、そんな灯籠のことなど眼中に無かったようだ。他人事ではなくうちの寺にも幾つか灯籠はあるが、樹木の中に溶け込んで庭の風景の一つになっているから、私自身もほとんど灯籠を意識したことはなく、ましてや時代考証などしたこともない。尤も我が寺のはどう見てもそんなに古い物とも思われないが、さすが奈良の寺は違う。

 ところで一口に灯籠の修理と言っても馬鹿にならないもので、費用を伺うと相当な額であった。そんなことから話が進んで建築でも仏像、その他美術工芸品でも奈良時代の天平、白鳳文化と言われるものはどうしてこんなに素晴らしいのだろうか、と言う話に及んだ。例えば建築で言えば法隆寺の金堂や五重の塔は他に比べようもない。しかしどういうわけか時代が下がるにつれてだんだん質が落ちてくるのである。技術的な点から言えば前者の上に更に積み上げてゆくわけだからますます素晴らしい仏像や建築物が残りそうなものだがそうではない。この理由はよく解らないのだが、執事長さんは私はこう思うと言われた。鎌倉初期に運慶と快慶と並び称せられる有名な二大仏師が居る。運慶は仏師定朝の孫、康慶の子で、その写実的で力強い様式は鎌倉時代の彫刻界を支配した。一方快慶は康慶の弟子で繊細な感覚による写実的表現にすぐれ、運慶と技を競った。この快慶は仏師として名を成すまで相当苦労しており、その間彼を精神的に支えたのは東大寺の重源(ちょうげん)であった。重源は最初醍醐寺で密教を学び、その後法然に師事し、東大寺大仏殿再建の勧進職を努め、見事完成させた偉大な僧である。快慶が残した仏像を見ると、重源死後の作品は明らかに精彩を欠いているというのである。私は二十数年も前になるが、奈良国立博物館で快慶作の重源像を拝見したことがある。これは遷化される僅か何ヶ月前に作られたもので、その迫力に圧倒されたことを覚えている。重源は快慶にとって仏師としてまた人間としての支えになっていたのだ。彼はどの優れた仏師でも重源を失った心の痛手は大きく、以降の作品に少なからず影響を及ぼしたのである。仏師としての技術を越えた ”この人のために彫る“という気持ちのようなものがあるのではないか。地位や名誉まして金銭のために出来ることには自ずから限界がある。特に芸術的領域ではそれら世俗の汚れを越え、神仏と何処かで直接繋がっている何かがどうしても必要になってくるのではないだろうか。つまり素晴らしい芸術作品の背後にはそうあらしめる精神的バックボーンが存在すると言うことなのだ。
 話は変わるが奈良の宮大工、西岡常一という大棟梁は夙に有名である。彼の下には多くの優秀な弟子達が居り、彼らが手掛けた数々の建築物は高い評価を得ている。しかし西岡棟梁の死後、残された弟子達の仕事は矢張り何処か違うという。彼らもまた偉大な師を失った悲哀を快慶と同様に感じているのかも知れない。十年ほど前、友人の寺の上棟式に招かれたことがある。施工業者は施主のたっての願いで西岡棟梁愛弟子の斑鳩工房という ところであった。無事上棟式も円成し本堂で祝いの膳が出された折り、たまたま私の隣に大棟梁西岡常一氏が座られた。こういう立派な方の隣に座らせていただいたのだからと早速に、「良い建築を作る一番の秘訣は何ですか?」と尋ねた。すると「それは施主家の熱意です。施主が一生懸命になれば、その気持ちは必ず大工達に伝わり、一本で済む釘も二本三本となり、一回の鉋も二回三回と掛ける ようになります。結局これがよい建築を作ることになるのです。」と言われた。これには成る程と大いに感ずるところがあった。

 我々の修行もこれと全く同様で、自分の努力で出来ることなど知れたものだ。生死巌頭に立ち、そこから更に一歩を踏み出す気概は、全てを捨てきって、唯無心に師匠の腹の中に飛び込んではじめて実現する。近年そういう命がけの真摯さが雲水に見られなくなったのは誠に残念なことである。それは大半の寺が世襲制になって、親から子へと引き継がれるため、緊張感に欠けるからである。重源と仏師快慶の心の交流を垣間見、深く生きることの意味を改めて考えさせられた。

 

 

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