2003年4月 法令に親しみ無し
 
 昭和三十六年三月、彼岸を過ぎて間もなくの頃、その日は生憎の空模様で朝から牡丹雪が舞う寒い日であった。十八歳だった私は初めて正眼寺に梶浦逸外老師を訪ねた。そこで私の出家が正式に認められたのである。次にどこか身元引受人である授業師を決めなければならないということになり、それでは梶浦老師の弟子にとお願いしてみたところ、正眼寺の不文律で弟子は持てないことになっているからと断られてしまった。しかし老師は「では私が昔小僧をしていた寺が京都にあるからそこへ頼んであげましょう。」と言い、早速電話をかけて下さった。その寺は十歳で老師が小僧に入り、後に住職に成られ、また正眼寺へ移られてからは現在、弟子の方が住職をされているという寺であった。一先ずその寺の弟子になり、それから二年後私は道場に入門し雲水となった。

 ところで、臨済宗は公案禅とも言われる。それは公案という問題が課せられ、その答えを朝晩一人一人が老師のところへ提示し点検をしてもらい、一則づつ解明してゆきながら心境を深めてゆくものである。従って日常の坐禅や看経(かんきん)、托鉢、掃除などあらゆる実地の修行は勿論のこと、同時進行の形で公案修行を進めてゆくわけである。この公案というのが実に難関で、修行者の心に重くのし掛かってくる。特に最初に与えられる初関はもっとも難解で、例えば父母未生以前の自己本来の面目は如何“というのがある。これなどは最初から問題の意味さえ分からない。自分の両親の存在さえまだこの世に無いとき、お前の真実の姿を見てこいなどとは全く理屈に合わない話である。しかし否も応も無く翌日から老師の前へ行って何か答えを提示しなければならない。まだちんぷんかんぷん解らないのでしばらく考えさせて下さい、などと暢気なことは言っていられない。参禅の時間になり合図の鐘が打たれれば、兎も角一斉に禅堂を飛び出して参禅室に向かわなければならないのだ。躊躇してそのまま坐禅を続けていようものなら”ご案内”と称して、係りの者に無理やり禅堂から引きずり出され参禅室まで連れて行かれてしまうのである。
 人は良く冬場素足で草鞋を履いた雲水の姿に修行の厳しさを感じるらしいが、我々からすればそんなのはたいしたことではない。確かに寒いには違いないが、肉体的苦痛など取るに足らないのだ。それよりもこの公案で苦しめられることの方がどれ程辛いか知れない。毎日何をしていても常に頭にあるのはこの公案で、朝晩参禅の時間が近づいてくる度に心臓がぎゅっと締め付けられ胸苦しいような気持ちにさえなる。
 私が入門した年はどういうわけかやたら入門者が多く、一度に二十二人も入った。これだけ同期の者が居ると自然に競争心が湧いてきて、特に参禅では一喜一憂した。少し良い見解(けんげ)があると、室内から老師が竹箆(しっぺい)で背中をたたく音が聞こえ、順番を待っている私の心に棘のように刺さった。自分の見地はどうかと言えば、真っ暗闇の中にあって悶々とした心境だったから一層堪えたのである。やがて一年ほど経つと、 何人かの者は早くも見性(悟りをひらくこと)したらしいという風の噂も伝わってきた。居ても立ってもいられない心地で、就寝時間の後も一人黙々と夜坐に骨を折った。しかし人一倍愚鈍だった私はそれほどまで努力をしても尚眼を開くことが出来なかった。同僚たちの話では参禅の度に結構老師からヒントをもらっているらしいのだ。それに比べて私は木で鼻をくくられたような扱われかただった。 いつも老師から「お前は儂の弟子だから な〜。」などと言われているのにこれはどう言う訳だろうと、自分の努力不足を棚に上げて心には不満さえ芽生えていた。結果的に人より大分遅れて私も見性することが出来たのだが、以後このことがずっと頭に残っていた。

 あれから三十数年の歳月が流れ、雲水の指導をする立場になった今、あの時もし老師が世間的な情を持って私に対していたら多分今は無かっただろうと思う。修行の世界には「法令に親しみ無し」という言葉がある。また臨済録の中には「仏の求むべき無く、道の成ずべき無く、法の得べき成し」という一節があるように、元来求むべき仏などと言うものはないのだ。修行を成就していかなければならない道も、会得しなければならない悟りも無い。本来仏ではないか。生まれたままの無心の心に向かってひたすら努力し続ける日々こそが当に修行そのものなのだ。壁は高く厚いほどそれをうち破り乗り越えようと人は努力する。その努力こそが価値なのだ。老師はそこを見据えて私に 対していたのだ。最近ふっと当時のことが頭に浮かび、師匠のことを思い涙が出るほど懐かしくなる。

 

 

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