斯く申し上げるこの私もいささか過激な運動の結果、突然心臓が踊り出し、救急車で運ばれてしまうと言うような失態を演じた。だからあまり人のことは言えぬ。良く聞くのはスポーツ選手などは 意外と短命だということだ。結局仕事となれば極限まで自分を追いつめてぎりぎりのところで頑張り抜く。すると活性酸素というのが出て、それが身体の害になるのだそうだ。ここでも程々が大切と言うことである。
次に規則正しい生活で、早寝早起きは健康の元である。我々の僧堂生活では起床は午前三時半、就寝は十時半というのが一般的だが、私などもこのお陰で元気でいられると思っている。特に早朝は気分もすっきりして思考も冴え渡る。だからこの時間帯に考えたことは精神も澄んでいて、特に重要な判断をするときは大抵間違わぬ。同じ事柄でも夜遅くまでぐずぐず思いを巡らして出てきた考えは、自分では熟慮の結果と思っているが何処かに余分な計らいがくっついている。だから詰まらぬ事に引っかかって堂々巡りを繰り返し、行き詰まりますます深みにはまってゆく場合が多いものだ。規則正しい日々は心も健康になる。俗にも早 起きは三文の得≠ニ言う。商売人成らずとも大いに得をするのである。
江戸時代中期の白隠禅師の『夜船閑話』 にこういう一節がある。生を養うは国を守るが如し。明君聖主は常に心を下に専らにし、暗君庸主は常に心を上に恣にす≠ツまり自分の健康を守ることは国を守るのと同じで、明君と云われるような立派な帝王は常に心を下部、即ち一般民衆の処に置いて政治を行い、凡庸な者は心を上部、一部の取り巻き連中に置いて執政をする。その結果国は乱れ信頼を失いやがて滅びてゆくのである。元気の気は心と同じものと考えられる。气と米で出来ている気は、ご飯を炊くと凄まじい勢いで噴き出す熱気。そこから頭に血が上ってカーッとなること。湯気が人間の内部に蓄えられるエネルギー源、これが気というものだそうだ。この気を上部に置かず臍下丹田、臍のすぐ下あたりで養うことが肝心で、これが健康な心と身体を養うことに通ずるのである。ところが凡人はなかなかそうはいかぬ。ちょっと人から批判されようものならすぐに逆上し、血が上ってカーッとなり荒い言葉を吐く。そこで坐禅を組むことが大切になってくるのである。私たちは経験的にそれが心を静める最も良い方法だということを知っている。
天台小止観には、どうすれば病相を治すことが出来るでしょうか、という問いに対し、次のように書かれている。但だ安心して病在る処に止めば即ち能く病い治す。♂スも心配することなく安心して病気の在る処に気を止めておけば、即ち良く病は治る。心は果報の主、つまり国王が或る処に行けば賊共が逃げ出すようなもので、心は国王のように力が強い、という意味であろうか。お臍の下一寸の処、丹田に心を止めて守り続け、散らさ ないよう一心に集中して、時間を掛け修練すれば自ずから体と心の健康を保つことが出来るのである。
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