2003年7月 灯を消す
 
 多分小学生の頃だったと思うが、こんなことがあった。私は兄と机を並べて同じ部屋で勉強をしていた。ふっと眼を前へやると、一匹の小さな蟻が歩いていた。しかしこの事実を知っているのは私だけで隣にいる兄は全く知らない。ということはこのことをずっと拡大して考えてゆくと、私と兄とは同じ部屋で時間を過ごしていながら、実はお互い全く別々の世界で生きていると言うことになる。そんなてんでバラバラな世界にお互いが生きていながら、日常生活では何の不都合も生じないとは、何と不思議なこともあるものだ。そこで早速兄にこのことを話し、どう思うかと尋ねてみると、確かにそう言われればそうに違いないが、よく分からないな〜≠ナなんだかしっくりしないまま終わってしまった。あれからもう五十年近くも経ったが、妙に心に残っている。その時私の心に感じたことがその後の私の人生に何か重要な示唆を与えてくれているように思える。

 話は変わるが、心理学者の河合隼雄著『こころの処方箋』 に次のようなことが書かれていた。「小さい頃読んだ本の中にこんなことが書いてあった。何人かの人が漁船で海釣りに出掛け、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。慌てて帰りかけたが潮の流れが変わり、方角が分からなくなり、そのうち真っ暗闇になってしまった。都合の悪いことに月も出ない。必死になってたいまつを掲げて方角を探ったが見当が付かない。そのうち一人の知恵者が 灯を消せ!≠ニ言った。辺りは漆黒の闇に包まれた。しかし眼がだんだん慣れてくると、全く闇と思っていたのに、遠くの方に浜の明かりがぼうっと見えてきた。そこで帰るべき方角が分かり無事に帰ってきた、というのである。子供心にも何かが深く残るというのはなかなか意味のあることのようで、現在の私の仕事に重要な示唆を与えてくれている。」と。
 立場は違うが幼年期に感じた何かがずっと心に残って、その後の人生に大変大きな影響を与えたという点で私の経験と似ていると感じた。
 ところで氏はその本で話をこう続けて居られる。子供が登校しなくなり困り果て相談に行くと、学校の先生は「過保護に育てたのがいけない。」と言う。そうだ、その通りだと思い、今までのような手取り足取りの世話を一切止めてしまう。ところが子供は登校するどころか益々悪くなって行く。そこで今度は別の人に相談に行くと、「子供が育ってゆくためには『甘え』が大切で、思い切って甘えさせると良い。」と言われ、やってみると どうも旨く行かない。結局どうしたらよいのか分からず、相談に来る。この場合、過保護も甘えもそれなりに一理ある。がしかしそれは目先きを照らす灯のようなものだ。そのような目先きの解決をあせって灯をあっちこっちと掲げるのではなく、一度それを全て消して、闇の中で落ち着いて目を凝らすことだ。ぼう〜っと光が見えてくるように自分の心の深みから子供が本当に望んでいるものは何なのか、いったい子供を愛すると言うことは どういうことなのかがだんだん分かってくる。そうなると解決への方角が見えてくるのである。
 私がこの話に惹かれたのは灯を消せ という点である。これを世間一般の事柄に当てはめてみるとこうなるのではないか。近年、どの企業も景気の低迷が続き四苦八苦で、会って話しをすれば暗い話題ばかりである。泣きっ面に蜂と言うが、加えて米国多発テロ以来ますます先の見えない穴ぐらに落ち込んだようである。そこでこの苦境を脱出するためにいろいろとやってみる。しかし考えることはだいたい誰も似たようなことが多く、工夫の割には妙案はないものだ。そんな目先 の灯を求めず、一度全てを消して暗闇に眼を凝らしたらどうだろうか。こう言うとすぐ他人は何とでも言える。幾ら将来の理想を言っても今日生き延びることが出来なかったら全てお仕舞いではないか≠ニいう。ここで重要なのは灯を消すというのはそう簡単にはできないということだ。我々の禅ではこれを大死一番≠ニいう。誰でも我が身は可愛い。そこで自分だけは何とか旨い具合にここを擦り抜けられないものかと虫の良いことを考えるものだ。しかしその崖っぷちで全てを放下し、暗闇に眼を凝らしたとき、初めて別の世界が見えるのである。

 こういう世の中になってくると皆が藁をも掴む気持ちになる。すると適当に灯を売るのを商売にする者が出てくる。それはそれで存在意義もあるから一概に善し悪しは言えぬが、本当の指導者でないことだけは確かだ。こういう逆境だからこそ、他人から与えられたものは敢て消し、闇の中に眼を凝らして、目先にとらわれず、自力で真の目標を見出してゆく勇気を持って欲しいと念じている。

 

 

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