私はいつも雲水に向かって、「お前たちは詐欺師になり下がるな!」と警告している。例えば禅宗では葬儀の時、引導法語というのを唱える。これは死者がこれからお釈迦さまの弟子となり、あの世で仏の道を歩むわけだが、そのためには守らなければならない戒律や心構え、さらには悟りの境地を得なければならない。その手引きをするのが所謂引導法語というものである。だから雲水修行で得た悟りの境地を言葉にして解りやすく説いてゆ かなければならないのだが、内幕を暴露してしまえば、この通りやっている僧侶など殆ど居ない。三途の川の渡り方さえてんで解っていないのだ。借り物の引導法語を丸暗記し、大きな声を張り上げればそれで済むと思っている。もしそこで死者が「和尚さん、この川を渡ってからその先私はどう行けばよいのでしょうか?」などと尋ねても、「まっ、先のことは交番ででも聞いてよ!」てなもんでさっと引き返してしまう。人様の借り物の法語を只棒読みしているだけであり、まだ自分も行っていないのだから案内することなど到底出来はしないのだ。無責任も甚だしいと言わなければならない。それならせめて心に恥ずるところでもあって、「お布施は三割引で結構です。」と殊勝なことでも言うならともかく、それどころか、「うちも子供の教育費がなかなか要りましてな!」 などと、涼しい顔をしてまだ足りないように言う。これは明らかに詐欺に他ならないが、証拠が掴めない。死人に口無しと言うように、何処へ連れ て行かれようが訴える場はないのである。 こんなていたらくだから多分地獄は僧侶で満員であろう。
これ程までに僧侶が堕落した原因は世襲制と檀家制度にある。寺は本来公的なもので、それを一時預かって管理しているだけなのだが、親から子へと身内の者同士で受け継いでいくうちに、だんだん自分の物のように思い込んでしまう。こういったぬるま湯体質、切磋琢磨なき制度は活力を失い固定化し、優秀な人材を取り込むことが出来なくなる。さらに江戸時代から続いた檀家制度は恰も寺に人質を取られているようなもので、僧侶を自分で選ぶことが出来ない。僧侶の方もこの上にどっかりと腰をおろし、太平の夢を貧っているのが現状だ。
これだけ悪い条件が揃っていても依然として既成教団が滅びないのは何故だろうかと、以前友人と議論したことがある。彼が言うには、天皇制と同じような側面があるのではないかというのである。もしそれが無くても世の中は成り立って行く。事実、世界中には天皇が居なくても立派にやっている国家が沢山ある。しかし日本では天皇が必要なのだ。それは自分たち在俗の者は生きるために人を蹴落としたり余計な欲をかいたり、諸々の悪行を積んで行かざるをえない。だから人間として生きて行くためには何処かで精神的お祓いをする場がないといられないという気持ちを誰もが持っている。寺の和尚の場合も同様で、その背後に輝いている仏法の光を拝み、その光によって我が身の心の悪を清めたいと願っているのだというのである。つまり親鸞上人や日蓮上人、道元禅師や栄西禅師を拝んでいるのである。
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