2004年4月 壁

 
 現代は変革の時代″と言える。その重要な内の一つに親子関係の変化がある。私の両親も明治生まれだったから親との考え方のギャップ、そこから派生する無理解に随分頭を痛めた覚えがある。知人からこんな話を聞いた。彼の家は代々続いた商家である。商人に学問は無用だ、下手に知恵が付くと小賢こく成るばかりでろくな者にならない。勉強などするな!というのが親の考えだったそうだ。これは実社会で学ぶことが最も大切なのだという、いわば実学第一主義とでも言うべき考え方である。だから家では勉強しているところを誰にも見られないよう、陰に隠れてやったという。
 こうなると親子は必ず衝突し、子供の前に立ちはだかる一つの大きな壁となる。しかしその衝突の中から子供は少なからず人生を考え、自らの存在を確かめて行くのだ。ある時期子供は急カーブに成長し、自分でも押さえきれないような精神のアンバランスに陥ることがある。体の内に不可解な力が湧き上がってきて、自分でも思っても見ない行動に出たり、訳の分からないことを口走ったりする。私も嘗てそのような時期があった。

 京都の寺に小僧に入って間もない頃、師匠に急な用事が出来て何時もお詣りしている檀家へ毎月のお経に行けなくなってしまった。そこで「お前一寸儂の代わりに檀家へ誦経に行ってくれんか。」と言われた。その時どうしてそんな馬鹿なことを言ってしまったのか未だに自分でも分からないのだが、「和尚さん、今日はお経を誦む気分ではありませんので行きません。」と言った。さすがの師匠もこれには頭に来たのか、「お前な〜坊さんがお経を読む気持ちにならないから誦経には行かないなんぞと言ってたら、坊さんなんかやっとられんぞ!」と叱られた。結局それ以上のことは何も言われず、師匠は自分で何とかやり繰りして出かけたようだった。今となってはよくぞそんな程度で済ませてくれたかと感謝の気持ちでいっぱいだ。これなども今となっては全く理解に苦しむ言動で、矢張り少年期の不安定な精神状態がもたらす不可思 議な振る舞いの一端であろう。いずれにしてもいろいろな場面で衝突し、子供はそこから自分を知り現実を知りながら成長してゆくのである。
 親子の間で話が旨く噛み合わないと言うことほど素晴らしい関係はない。一見逆説的にも聞こえるが、此処で重要なのは理解ある親を持つ不幸”ということである。今申し上げた通り子供は訳の分からぬことを言っては爆発し、親の大きな壁にぶち当たってくる。そのとき親の方は、お前の爆発する気持ちはよ〜く解る”などと言って、壁の役目を放棄して其処から逃げ出してしまうのだ。つまり親が壁となって子供の体当たりを受け止めるエネルギーを使わなくなったのである。そこで子供の方はぶち当たるつもりの壁が突然消えてなくなり、何処まで突っ走って良いのやら、何処で止めるベきやら分からなくなり、結果大混乱を来たすことになる。
 喩えれば丁度相撲取の稽古と似通っている。褌担ぎの新米力士は兄弟子の胸を借り、ぶつかり稽古をする。何遍も跳ね飛ばされ泥まみれになりながら、徐々に力をつけてゆき、やがてはその兄弟子を本場所で投げ飛ばすようになるのである。以前或る所で土俵開きがあり、当時まだ関脇だった千代の富士と十両くらいの力士が数人来て、新しい土俵でぶつかり稽古をしたのを見たことがある。軽量の千代の富士にその何倍もあるような力士が ものすごい勢いで体当たりする。ところが胸を貸している千代の富士は体中真っ赤になって火を噴くように変化していったが微動だにしなかった。プロと言うのは凄いものだと思った。
 親子関係でも全く同様で、子供の体当たりに親は胸を貸さなければならない。その為には自分の人生に自信を持ち、強く歩んでいなければならぬ。孤独に耐え、決して誤魔化すことなく、真剣に相い対することが重要である。世間一般には子供を理解し、良き相談相手とでも言うべき親が一番だと言われているようだが、これは間違いだ。会社の社長でも、やたら社員に理解があっては会社も人も育ちはしない。

 近頃僧堂でもいじめの問題が出てきた。 確かに世間で言われているうような陰湿で、修行の本筋からかけ離れたようなものは断じて見過ごすわけにはいかぬ。とは言え、修行の場が仲良しクラブになってはお話にならぬ。ずる和合で和気藹々としておりますでは、何のための道場かということになる。実際そこの見極めはなかなか難しく、指導者としては頭を痛めるところである。しかし私は良い意味でのいじめは必要だと考えている。前に立ちはだかる大きな壁が有ってこそ人間は頑張ってそれを乗り越えようと努力してゆく。飛び込んだ力で浮かぶ蛙かな≠ネのである。

 

 

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