2004年3月 禁忌

 
我が国では大半の人が一応仏教徒になっている。勿論神道やキリスト教或いは所謂新興宗教の信者さん達も沢山居る。これら信者の数を総計すると日本人ロを遙かに突破するそうだ。私の知人で、禅寺の檀家でしかも一方では彼自身信ずる或る神道系の新興宗教の篤い信者になっている人がいるが、組織の上でも意識の上でも全く違和感はない。多くの日本人は正月には神社へ初詣に出かけ、お盆に は先祖の墓参りに行くのである。では外国で貴方の信仰はと問われれば一応仏教徒と答えても、それ以上の質問には答えにくい。今お話しした彼のようにはっきりと自覚して信仰を持っていればよいが、大抵は自分の所属している宗派さえ知らない。つまり言ってみれば現代日本人の殆どが無宗教で生きていることになるわけで、これは世界的に見ても大変特殊な存在である。

 昨年の九・一一テロ事件以来、イスラム教の存在がクローズアップされ、その独善的で狂信的なところは我々にはどうも良く理解出来ない。宗教とは我々にとって一体どういう存在なのか大いに考えさせられた。また何年か前の、インドネシア味の素の豚肉事件も誠に理解に苦しむものだった。これは製造過程で触媒に豚の脂を使ったために、一大不買運動に発展した事件である。イスラム圏では豚肉・アルコールなどは一切口にしてはならず、ラマダン期間中になれば日中食事をしないなど、様々な宗教上の禁忌がある。また日に五回お祈りをするのだそうで、その度に仕事を中断しなければならず、我々から見ればさぞ不自由なことだろうと思う。しかしこれを単に非効率的で厄介なことばかりとも言えない側面があるのではないかと思われる。
 さて日本の場合はどうか言えば、お坊さんの肉食妻帯などは当たり前、一般でもたとえば葬儀や法事の時に、食事は精進にするなどと言うことも今では殆ど見られなくなった。日常生活に於いても自分は仏教徒だから、これこれのことは絶対に守らなければならないと言うようなことは僧俗共に殆ど無い。近代化の波の中で迷信、取るに足らないこととして捨てられてしまったのである。しかし日本でも嘗ては宗教的タブーはあった。
 友人の寺はアルプスの名山槍ヶ岳を開かれた萬龍上人が開山である。その為彼は毎年百キロを超えるような巨体を揺すりながら岩にしがみつくようにして槍ヶ岳の頂上に登り、萬龍上人の法要を勤めている。何が因果でそのような寺に住職する羽目になってしまったのかと考えると、全くお気の毒千万だが、彼はずっとこれを続けている。今日では山はもっぱらスポーツとして登るが、元来山岳信仰の象徴として崇められていた。山には神が宿っているのであり、単なる登山というスポーツとしての対象物と見るような風潮は間違っていると思う。高い山に登り暁に輝く太陽を眺めれば、信仰の有る無しに拘わらず、誰でも不思議に神の存在を感ずるものだ。
 また森を惜しげもなく伐採し無惨に切り崩す乱開発のさまを見るにつけても、恐れを知らぬ行為と言わざるを得ない。岐阜県内には七十数ヶ所ものゴルフ場が有るらしいが、無闇矢鱈に作った結果、今になって企業の倒産というしっぺ返しを食って居る。金儲けになれば自然を破壊しようが信仰を踏みにじろうが構うものかという考え方が招いた結果である。止めどもない自然破壊はひいては人心の荒廃へと繋がって行く。宗教的禁忌は一見前近代的で不合理のように見えるが、果てしない人間の欲望を何処かでコントロールする調節弁に成っているのではないだろうか。宇宙的規模の視点からすれば、我々の日常生活にとって掛け替えのない戒めになっているように思えてならないのである。

 僧堂で修行していた頃、冬になると何時も村の子供達が、「山の子のか〜んじん!」と鐘を叩きながらやって来た。僅かばかり供養のお金やお米を渡すと喜んで帰っていった。そうして村中を歩き、集めたもので料理を作ったりお菓子を買ってお供えをし、山に向かってお祈りをした後、皆で食べるのだそうだ。またお釈迦様がお生まれになった四月八目の前日には、子供達が寺にやって来て、摘んできた野の花で花御堂を綺麗に飾ってくれた。このように代々受け継がれてきた伝統の行事には必ず自然を敬い宗教を観ずる仕組みが込められている。万物を神仏と敬い恐れるという連綿として伝えられてきた伝統や習慣、宗教的禁忌などを悉く無視し、単なる意味のない迷信として片付け、それが恰も近代合理主義だと誤解してきた。特に戦後多くの日本人の意識の中には、アメリカ的なものへの無節操な心酔があり、このことに一層の拍車を掛けた。日本には長い伝統に培われてきた誇るべき日本固有の文化がある。今改めて我々は宗教的禁忌の持つ深い意味と智慧を学ぶべきではないかと思う。

 

 

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