2004年8月 還暦祝い

 
 九月下旬、友人が私の還暦を祝って夕去りの茶事(半昼半夜)を催してくれた。相客は私が今まで何かとご厚誼を頂いた方々九人、午後四時の席入りにそなえ、既に寄付待合に待機していた。やがて時間を見計らい露地腰掛に移ると、亭主が手燭を持って向付け(むかいつけ)に出てきた。一礼の後、手や口を濯ぎ順次席入りした。床の掛け物は以前私が差し上げた隠山禅師の書であった。彼は以前より茶事を日常に取り入れており、物事の 節目には必ず改まって親子でも亭主と客になり、お茶を楽しんでいた。しかし所謂名器名品が有るわけではない。そこで無いものは何日もかかって文字通り手作りでしつらえた。今回も同様で、取り箸を全て青竹で作るなどは毎晩の夜なべ仕事だったそうだ。しかもその出来映えときたらプロ並みで、入念な心構えが窺われた。茶事が全て終わった後、彼が余興で種明かしをしてくれて解ったのだが、 風炉先屏風は適当なものがなかったので、 近くのホームセンターで桐の木を買い求め、自分で作ってしまったという。

私の寺の名前に因んで龍の絵を描き、その横には還暦を祝う五言絶句の詩を作り、それを朱漆で書き上げたものである。二枚の板の繋ぎ目はよく見ると蝶番を大きな木ねじで留めてあった。席入りして間もなく釣瓶落としの秋の夕暮れ、暗くなった部屋は和蝋燭で照らしだされた。明るいのは蝋燭の置かれたほんのわずかな空間だけである。これがまた却って独特の雰囲気を醸し出しとても良い感じになっていた。そういったわけで風炉先屏風がどんな代物なのか、真っ暗で皆目分からず、多少粗雑なところがあっても闇が全て隠してくれたのである。
 間もなく料理が運ばれた。正式な懐石料理である。焼き物・煮物・蒸し物等、どれも出来栄えは一流の料亭並み、これらは全て彼の奥さんとお嬢さんの手作りである。何日も前から仕込み始め、着々と準備をしてきたという。見事だったのは伊勢エビが丸ごとで〜んと出てきたことで、「一度にこれだけの数、しかも大きさまで揃えるのは大変だったでしょうね」と尋ねると、これは魚屋さんに頼ん で買ってきたものでは無く、熱海の網代で漁師をして居られる彼の兄上が漁ったものだという。現在は息子さんに身代を譲って隠居の身なのだそうだが、還暦の祝いの茶事でどうしても使いたいと頼むと、老骨にむち打ってエビ漁に出、ようやく取り揃えてくれたのだというのである。「久しぶりに兄貴を訪ね、事情を話し頼むと、顔も腕も体中潮焼けして、しょっぱい顔の兄貴が、よし!そういうことなら儂が必ず揃えてやると言ってくれた。こんな有り難いことはなかった。」としんみり語っていた。
 近頃の茶事というと床の掛け物は何々和尚のもの、茶碗はどこそこの名器、茶入れ、茶杓、花生けはなどと、立派な茶器が揃わなければ人を迎えることは出来ないと思っているが、決してそんなことはない。何百年も前の茶事ではその時代のものをいろいろ工夫しながら、自分で作りしつらえたのである。だから現在でも今のものを使ってやれば十分である。ただ茶席には品格というものが不可欠であるから、単なるがらくたの寄せ集めになってはいけない。要は亭主の道具組のセンスと硬軟合わせた上手な使い分け、それと思い入れの深さである。いずれにしても見事な工夫が窺えた。
 それから半月ほど経ったある日、今度は以前より親しくしている中国の留学生三人が寺にやって来た。私の還暦のお祝いに遠路千葉から来てくれたのだ。先ず恭しく軸物を差し出した。これは三人の一番上の姉が中国に帰った居り、著名な書家に揮毫して貰ったものだそうで、有り難く頂戴した。すると次に台所を使わせて下さいと言う。どうするのかと聞くと、これから餃子と麺を作るという。これは中国の昔からの習慣で、お祝いには必ず食べるのだそうだ。早速手分けして準備を始めた。弟の奥さんは麺が得意で、捏ねたうどん粉を器用に掌で延ばすと、くっつかない様に油を塗りながらボールの中へ渦巻き状に寝かしていった。まあその手際の良さにはほとほと感心させられた。弟と姉は餃子担当で、皮から手作りで、平たく小さく延ばすさまはまで手品を見ている様だった。ともかく一時 間はどすると大量の餃子と渦巻き状の麺が見事に出来上がった。

 ビールで乾杯!四人で大汗かきながら山盛りの餃子とうどんを食べ尽くした。たったこれだけの料理だったが、三人の一生懸命作っている姿と重なり、私を祝ってくれる気持ちがひしひしと伝わってきて、胸がいっぱいになった。
 友人の茶事と言い、留学生の手料理と言い、何れもお金では買うことの出来ない心からの祝意であった。久しぶりに清々しい気持ちになり、有り難いと思った。

 

 

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