ふっと五十年程前のことを思い出した。 私は昭和十七年生まれである。戦争が始まって以来快進撃を続けていた戦局もやや陰りが見えてきた頃である。東京の江戸川区で生まれたのだが、両親はいち早くこの戦争の行く末を案じ、神奈川県の田舎で父の兄が住んでいた隣に土地を確保し一家で疎開した。結果的には此処が終の棲家になったのだが、そのお陰で戦後の混乱期にも、住居に困ることもなく、飢え死にもせず、細々ながら生き延びることが出来たわけである。芋の蔓まで食 べることはなかったが、周囲の農家のように白米をたらふく食べることなどはさすがに夢のような話であった。
父は近所の農家から僅かばかりの畑を借り薩摩芋、小麦、栗、野菜、南瓜、砂糖黍まで栽培した。戦後は特に甘いものが無く、父は砂糖黍を絞り煮詰めて茶色の固まりのような砂糖を作った。その砂糖と水を小さな鍋に入れ、好い加減煮詰まってきた頃合に、白い粉のようなものを入れる。すると途端に膨れ上がり小さな円盤形のものが出来上がる。これをカルメ焼きと言ってちょっとほろ苦いが砂糖の固まりで、それは旨いものだった。物のない時代はこんな工夫までして親は子供のために一生懸命だったのである。
またこんなこともあった。我が家は母が商売で忙しく働いていたので炊事洗濯掃除などは、ばあやが一手に引き受けていた。ところが夏から秋にかけて年に一度は長期休暇を取って郷里の新潟へ帰ってしまう。そうなると悲惨で途端に我が家は母の炊事となり、殆ど台所仕事などしてこなかった母の料理はお世辞にも旨いとは言えなかった。我々子供一同はひたすらばあやの帰りを待った。そんなある日の午後、母が息せき切って八百屋から帰ってきた。すぐ七輪に炭を熾すと網を乗せ買ってきたばかりの大量の松茸を蒸し焼きにし始めた。香ばしい匂いが部屋中に充満した。次々に焼けてくる松茸を、「あちっちっちっ!」と言いながら裂いては醤油に浸し、まるで親鳥が雛に餌を与えるように、大きく開けた子供達の口に放り込む。「美味しいでしょう!」「うん!美味しい!」こうして瞬く間に食べ尽くした。ところが母は一口も食べ ては居ないのだ。当時は何も思わなかったのだが、五十年も経った今、ふっとその時の母の姿が懐かしく浮かんでくる。こんなふうに戦後貧しかった頃の全てが不思議と父や母と深く結びついてくる。
母は晩年、私が岐阜の寺の住職になってからは、季節の変わり目に何時もやってきて、タンスの入れ替えと繕い物をしてくれた。私が 「どこかへ旅行でもしようか?」と言うと、「どこへ出掛けるよりもここが一番。」と言ってせっせと繕い物に精出していた。ついに親孝行の万分の一も返すことが出来ずに終わってしまったが、親の幸せとは子供が幸せに暮らしていることなのだ。だからどんなに辛いことがあっても胸を張って、私は幸 せですといつも言えるような日々を送ることこそが、最大の親孝行に繋がってゆくのではないかと思う。
さて公案の本筋から少々逸脱したので、 ここで話を元へ戻す。修行した者は万事我慢強く成るから、多少辛くとも幸せだと思えるのだ、などと解釈したら大間違いである。日々の暮らしは苦しみがあり楽しみがあり、愛することもあれば憎んだりもする。損したり得したり、この世は矛盾だらけである。しかしそういう現象をただ上っ面だけ見過ごすのではなく、そう思っている心とはいったい何なのか、さらに自分とは何者なのかと深く見つめて行くと、そこに大いなる心″の存在を知る。
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