2004年12月 存在の力
病気と言えば癌。それくらい近頃私の周辺でも癌で倒れてゆく人が多い。あんなに元気だったのにと惜しまれてならない。しかし一方では同じ病気でも、心の病もまた現代の深刻な問題である。日本では年間三万人以上もの人が自殺で亡くなっており、原因は様々だが一つに鬱病がある。鬱病の治療法もいろいろだが、なかに箱庭療法というのがある。この治療法を目の当たりにしたことがないので詳しく申し上げることは出来ないが、その道の権威、河合隼雄氏が次のように言っておられるので引用させて頂く。
要するにこの治療法は小さな箱と庭に必要なあらゆるもの、例えば家や垣根、砂や木、ベンチ、犬や猫などの動物にいたるまで様々なミニチュアが揃えられており、患者は自分で好きなようにそれらを使って箱庭を作ってゆく。
ではこの時療法家は何をするのかと言えば、出来上がった箱庭を見て患者の心理を分析し然るべき診断を下し治療してゆくと思われがちだが、どうもそうではないらしい。結局何もしない方が良いのだと言うのである。
只じっと傍らに存在すれば患者自身が自分で治ってゆくという。しかしこれが実に難しく、何もせずに只ぼ〜っとしていたのでは人間の心はどこか外へ遊びに行ってしまう。そうならずに全身全霊をあげてそこに居るということが大切なのだ。これは禅で言う成りきる≠ニいうことで、そう容易なことではない。 現代人は何かすることに忙しすぎて只そこに居ると言うことが出来ない。何もしなければそれは無意味なことだと考えてしまうからなのである。
話は変わるが、近頃私のような者にまでやたら講演を頼まれることがある。これもお坊さんとしての役目の一つだと考え引き受けてはいるが、内心いつも無意味なのにな〜!"と思っている。こんなことを言うと依頼者には大変失礼になるかもしれないが、これ以上余分な知識を詰め込んで一体何をしようとするのか。どうも皆意識が外に向かってばかりいる。
そんな暇があるのならじっと坐って、自らの内に向かって沈思黙考し、只存在することの意義を見つめ直したらどうだろうか。その方が私の話を聞くより数倍も得るものがあるに違いない。だから日々徒に現象が目の前を通り過ぎるばかりで、未消化のまま右の耳から左の耳に通過するだけ、結局本当には何も得ることが出来ないのである。我々はもっと何もしないことの価値を知らなければならない。
昔、良寛さんが頼まれて親戚の極道息子の説得に出掛けたそうだ。頼んだ親戚の者はさぞ為になる話でもしてくれると期待していたのだが、結局良寛さんは何も話されることもなく、いよいよおいとまと言うことになった。昔のことだから草鞋を履いて帰るというわけで、その時親はせめて良寛さんの草鞋を履かせてあげるようにその極道息子に言った。仕方なく前に屈んで草鞋の紐を結んでいた時、頭の上にポタッ!と良寛さんの涙がこぼれ落ちた。たったそれだけでこの極道息子はがらりと心を入れ替え真面目になったというのである。良寛さんは一言も発せられなかったが全身全霊をあげて傍らに存在したのである。
この息子はそれまで耳にタコができるくらい、いろいろな人から説得されてきたに違いない。言葉で解るくらいならもうとっくに改心しているのである。しかし結局何一つ通じなかったのだ。傍らにじっとただ存在するだけで、それが自ら立ち直ってゆく大きな支えになったのである。言葉で伝えられることなど実はほんの僅かで、本人自身が自覚し目覚めてゆく以外に道はない。一見無為と思われるこの方法が意思を伝える上では最良の手段なのだ。
井筒俊彦氏がこう言っている。『我々は通常自他と区別することを大切にしている。しかし意識をずっと深めてゆくと境界がだんだん弱くなり融合してゆき、そして一番底までゆくと存在≠ニしか喚びようのない状態になる。そのような存在が通常の世界には花とか石とかはっきりとしたものとして顕現している。従って我々は花が存在している″と云うが、本当は存在は花している″と言うべきである。』
存在が花しているという表現はなかなか面白い。こうなると自他の区別は完全になくなって、あらゆるものは全て根っこで繋がっている感じがする。そこからものを見ると 「あなた花やってますの、私清田やってます。」 とでも言いたい様な気になってくる。禅語に"天地と我と同根万物と我と一体″というのがある。双方がぴたっと一体になるところから摩訶不思議なエネルギーが発せられて、そこで感じられるものがあるのだ。これを存在の力≠ニ言えまいか。しかし成りきることは容易いことではない。自分を滅してゆかなければならないからである。その 「何もしない」 ことの重要性を我々は再確認すべきである。
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