雨や風の音はもちろん、朝な夕なの小鳥やカラス、鳥や牛の鳴き声、馬のいななきなども収め、夏のヒグラシ、秋の虫の音と季節の音もぬかりなく入れていた。単に映像に目をやっていただけでは気付かなかった音の織り成す牧場の一日と、春夏秋冬の原野の移ろいを細やかに表現していたわけで、さすが山田洋次監督!とうなる思いであった。
某大学の文学部で教えていたころ、授業中の学生たちに五分間目を閉じてもらいその間に気付いたことを全部書き出させたことがある。その一つ一つは彼ら自身の驚きと発見に満ちていて、体内の鼓動と生命の不思議や指のすきまを通る風まで書く学生もいた。現代人は視覚に頼り過ぎだと言われる。時には目を閉じ耳をすますひと時を持っていただきたい。呼びさまされる感覚にハッとされることもあるのではなかろうか。』
皆さんは、もし「見る・聴く・話す」この内のどれか一つを失うとしたらどれを挙げるだろうか。私は即座に「見る」を挙げる。視覚から入る情報は確かに計り知れないものがある。しかし一方で失ったものも多いのだ。目で見たものに惑わされ、本質を見損ない、失敗した例は枚挙にいとまがない。わかり易く、たとえば恋愛結婚で、破局に至る不幸などは、この典型とは言えまいか。特に男の場合、見た目が良ければ中味も良いように錯覚を起こす。これがたいていは間違いで、決めつけるのは良くないかもしれないが、概して美人は性格が良くない。小さい時から廻りにちやほやされ、更に頭脳明断ならなおのこと、本人は増上慢になって、心の何処かに何時も「フン」と鼻に掛けるところがある。ではこういった女性は文字通り鼻持ちならないかと言うと、実際はそうとばかりも言えない。何故なら、視覚から入る情報が、概して最も優先する傾向にあり、為にその外の情報は遮断され、見損なうことになりがちだからである。私はそこで人と対するとき、何時も目を閉じることにしている。そうして耳に集中すると、喋り方、声の質、論理の明快さなど、相手の本質にダイレクトに迫ることが出来る。江戸後期の国学者、塙保己一は、突然明かりが消えて右往左往する人達に、「目明きとは何と不自由なものよ」と言ったそうだが、両目で確かに見届けたから間違いないなどと言うのは、大間違いの始まりだと知らなければならない。
|