運
 
家庭の事情でお坊さんにさせられたと言う話は、少し前まで良く聞いたものである。少子化の今日では考えられないことだが、昔は子供の数が多く、経済的にも苦しい家庭が多かった。そこでお寺に預ければ教育も受けられる上、躾も厳しくしてくれるので親としては安心だったのである。さらに「一首出家すれば九族天に昇ず」で、一族の中から一人お坊さんが出れば、その功徳によって九代前の先祖まで皆浮かばれると言う信仰もある。特に美濃尾張地方ではこの考え方が伝統的にあって、沢山の僧侶が生まれたのである。
 あるところに、山奥の百姓生まれの子供が居た。親が早く死んだため、兄弟は縁を頼って離散した。その内の一人が村の寺に預けられ、その後他県の大きな寺の小僧になった。高校を卒業すると同時に専門道場へ入門、爾来長きにわたって研鑽し、ひとかどの雲水となった。

こういう場合、次に小僧寺の跡取りになるか、全く別の寺に入るか、そのどちらかは、専ら師匠が心配するわけで、いずれにしても然るべき寺の住職となって、その後の新たな人生が展開する次第である。ところが、彼の場合、何らかの事情があったらしく、将来を一番案じて呉れるはずの師匠と旨くいかなくなった。幼年期に杖とも頼るべき親を失い、ここでも再び親を失ったのである。こうなると小僧は情けないもので、途端に路頭に迷うことになる。当時の心境について伺ったことはないが、さぞ心細い思いをしたに違いない。ところが捨てる神あれば拾う神ありで、親身になって行く末を心配してくれる先輩に救われ、或る寺の住職に納まることが出来た。私も丁度その頃同じ地域の寺の住職になったので、元気そうな顔をお見受けすることがあった。彼は少々アクの強いところがあり、酒が入ると更に拍車が掛かると言う性格的な一面もあった。そんなことが災いして、あれだけ長く修行をしていながら、やや不運な人生を歩まざるを得なかったのだと推測される。並の者ならこれでほぼ人生は決まってしまうのだが、何と急転直下、その地方では高名な大寺の住職になったのだ。人生とは全くわからないもので、まさかそう言うことになるとは思いもよらなかった。住職するや、永年の伝統を根底からひっくり返すほどの大改革を断行し、生き生きとした寺に生まれ変わらせ、現在も尚矍鑠として頑張っておられる。まさに水を得た魚のような働きぶりである。この人を見て思うのは、人には運命というものがあって、我々のような浅薄な者がとやかく言うよりも、もっと底知れぬ深い所で何かが動いているような気がする。彼の人生は常識的に言えば、最初に住職した時点で決まったようなものである。ところが実際はそうではなく、そこから更に輝かしい未来が展開したのだ。これは運が良かった言う他無いのかも知れない。
 さて次に全く反対の例を知っている。この人は性格は実直そのもの、意志も硬く生真面目で、誰よりも抜きん出ていた。その修行振りは既に雲水の頃より注目を集め、門前のお百姓から僧堂の先輩方に到るまで、将来はきっと老師になって、大活躍をするに違いないと予感していた。ところがそれから十数年後、自坊に帰り、その後結婚をし、何処にでも居るような、何の変哲もない和尚になってしまった。これには驚ろかされた。鋼のような強い意志を持ち、「百万の敵あれど我行かん」というタイプの彼が、またどうしてそんな事になってしまったのだ。理由を挙げればいくつか思い当たる。老いた母親の面倒を自分が見なければならなかったり、一端は捨てるようにして出た寺でも、生まれ育ったところだから、矢張り特別な愛着があったのかも知れない。しかし、出家とは文字通り家を出ることであり、親を捨て寺を捨てるのは覚悟の上、そのために厳しい修行をするのである。事実彼はそれを誰よりも忠実にやってのけ、誰よりも頑張ったのだ。

今私は老師となり専門道場の師家となっているが、私が成るくらいなら彼の方が何倍も素質を持っている。にもかかわらず成らなかったのは、どう解釈したらいいのだろうか。一つに、人間の心の計り知れない奥底には、有象無象の魑魅魍魎が巣くっており、本人自身にも解らない世界が存在するのかも知れない。真面目に頑張ったら、その結果が約束されると言うような単純な構造には成っていないのではなかろうか。こういう通常の理解を超えたところは、何とも言いようがないので、「あの人は運がいいね〜。」とか、「どうしてああも運が悪いのだろうか?」となる。また別な見方をすればその人に備わった「徳」と言えるかも知れない。我が身の不運を嘆くより、自分の徳の無さを反省した方が良い。そう考えると、人間の見方も少し変わってくると思うのだが如何であろうか。

 

 

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