はた迷惑
 
もう二十年以上も前のことになるが、まだ郷里の母が健在だった頃のことである。現代の者なら、そんなことは考えもしないが、明治生まれの母は、女が外出するのは世間を憚る事だという信念を持っていた。殆ど物見遊山に出かけることはなかった。老いの一徹で、頑として信念を貫き通し、だから兄嫁とも何かと揉めることも多かったようだ。ところが八十を過ぎる頃になって、どういう風の吹き回しか、この間までの頑固は何処へやら、近所のおばあさん達とちょいちょいバス旅行に出掛けるようになった。帰ると旅行中の話を嬉しそうに話してくれた。ところが、喜んでいたのは母だけで、一緒に行く他のおばあさん達にとって、母の存在は誠にはた迷惑だったのである。バスの乗り降りから移動のたびに、誰かが手を引いてやらなければ成らない。よろよろした足取りでは、黙って見ているわけにも行かず、まるで母の介護役に来たようになってしまったわけだ。何回目かの旅行の時、堪りかねた代表の一人が、兄に窮状を訴え、参加を見合わせて欲しいと言ってきた。生来ぶっきらぼうな兄は、そのまま母に伝え、「もう行くな!」と告げた。

母は既に八十を越え、私も時折郷里を訪ねるだけの状態だったので、旅行を取り止めざるを得なくなったのがそう言う経過だった事は知らなかった。ある時、いつものように旅行の話を聞こうとしたら、しゅんとしているので、どうしたのかと尋ねると、はた迷惑だからもう行くなと言われたというのだ。人生も最晩年になって、他に何の楽しみもなくなり、今まで出来なかった旅行を唯一楽しみにしていた母の落胆振りは酷いものだった。そこで私が、「それなら、これからは何処へでも行きたい所へ連れて行ってやる。」と言った。これには大変な喜びようで、その頃NHK朝の連続ドラマで、奈良の春日大社の出てくるのがあり、即座に、「奈良へ連れてって!」と言った。こうした経過で第一回目の奈良旅行が実現することとなったのである。
奈良へ行くには、位置関係で言えば、名古屋で私が新幹線に乗り、車中合流すれば無駄なく直行できるわけだが、まずは母が神奈川の家を出立する所から私の世話が始まる。電車の乗り降りは勿論のこと、道中のお菓子やお茶の心配、乗り物酔いに弱い母だったから電車の坐る位置に到るまで、結構次々に気を遣う。京都での乗り換えも容易なことではない。大汗掻いてようやく無事に奈良駅に到着した。直ぐに駅前でタクシーを拾い、まずは東大寺大仏さま、二月堂を見ると、母はもうここまででへとへと。この先の見学は中止し、少し早めに宿に入ることにした。宿は周囲を鬱蒼とした森に囲まれた和風建築で、大変気に入って貰えた。宿に着くと兎も角直ぐに横になる。事情を話して床を延べて貰い、しばし仮眠である。元気印の母だが、さすがに神奈川から奈良までやって来るだけでも容易な事ではないのだ。しばらくして落ち着いた所で入浴を済ませ美味しい料理を頂くと、ほっと一息ついた。ところが今度は歩き過ぎて足が痛いと言うので、宿の好意でトイレに近い部屋に代えて貰った。横になりながら今日一日の話でもと思ったら、早すやすや寝息を立てていた。余程疲れたのだろう、明日が案じられた。さて翌日、心配をよそにすっかり元気を取り戻し、唐招提寺、薬師寺、法隆寺をタクシーで巡り、京都で途中下車し、南禅寺で湯豆腐を食べ、夕刻無事岐阜へ戻ることが出来た。
以上は老いた母との旅行を思い出すままに記したのだが、つまり「老いる」とは実にはた迷惑なことなのである。そこで周りに迷惑をかけるのは真っ平だと考える人は、皆の中に入って一緒に何かをすることは出来なくなる。自分一人で家に籠もっているよりほか仕方がない。さりとて読書やテレビばかりでは、老化で直ぐに目がしょぼしょぼし、根気もなくなる。残すはひたすら死をじっと待つだけとなる。これではいかにも寂しい老後ではないか。私の場合母が相手だったから、どんなことでもはた迷惑と思わなかったが、さてこれが身内でなかったらどういう事になるのだろうか。「私はあなたの介護役じゃありません。」と言う事になるのだろうか。

 人間お互い持ちつ持たれつ、勿論程度にもよるが、足らざるを補い合いながら自然に振る舞えたらいいなと思う。私は常々「五パーセントの布施」を提唱している。消費税五パーセントに更に五パーセント上乗せして、周囲の人のために使って行く。それは何にもお金に限ったことではなく、労力奉仕でも、優しい笑顔でも良いのだ。兎も角人のために何事かすることである。その後、私は母を北海道から沖縄まで連れて回ったが、これからは身内の者に対してだけではなく、もっと広い心で、五パーセントくらいは無償の奉仕に使って行きたいものである。

 

 

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