方言の中でも特に所謂ずうずう弁はそれを喋る本人が一番忌み嫌っていたから、相当意識的に標準語を喋ったのである。明治から大正にかけて活躍した小山内薫という劇作家が居る。彼がペンネイムを考えるとき、この名前が一番東北弁に成らずに発音できたからだそうだ。方言が肩身の狭い思いをさせるのは、今始まったことではないのである。
駅弁の「えびふりゃ〜」を見ているうちにふっと、四十年ほど前の記憶が蘇ってきた。僧堂では大遠鉢という、春秋の彼岸中に泊まりがけで托鉢に出かける行事がある。その折り、宿は主に僧堂に縁のあるお寺や在家信者さんにお願いする。私が引き手をしたときのことだ。高山線で北上し、途中の駅で降りてはその場所を托鉢しながら高山まで行く飛騨組が割り当てられた。道中何日間かの宿は手配できたのだが、高山ではご縁のある処は一軒も無かった。困り果てた末に、窮余の策として、寺院録を繰って高山近郊の飛騨古川、国分寺さんを見つけ、電話でお願いしてみた。するとそれまで全くご縁は無かったのだが、快くお引き受け頂き、安堵の胸を撫で下ろした。お願いした当日、連日の托鉢で疲れ切った体を引きずるようにして、高山線飛騨古川駅に降り立った。夕刻の田舎道をてくてく歩くとやがて集落が現れ、こぢんまりした寺が見えた。「たのみましょう〜!」と玄関で声をかけると、寺の奥さんが出てきて、洗足用の盥に湯、雑巾を用意してくれた。冷え切った足と手を濯ぐと温かさがじ〜んと体の芯にまで伝わるようだった。この奥飛騨地方では春彼岸とはいえ季節はまだ冬で、時折り粉糠雪が舞っていた。部屋に上がり、挨拶を済ませてしばし休んでいると、「お風呂をどうぞ。」と言われた。遠慮無く入らせて貰うと、一日の疲れがす〜と消えてゆく心地がした。台所からはトントンと俎板の音が響き、別室に通された。そこには囲炉裏が切ってあり、赤々と火が燃えて部屋中に温かさが充満していた。心尽くしの手料理が振る舞われ、空きっ腹の五臓六腑に染み渡るようだった。食事が済むと、寺の奥さんと囲炉裏を囲み、手作りの茶菓子に番茶を飲みながら、僧堂のこと托鉢中のこと郷里のことなど、問われるままに囲炉裏夜話が続いた。ふっと、「実はうちの息子も今僧堂に行っておりまして、父親の和尚が早く亡くなりましたので、僧侶としての教育もままならず、無事に修行をしているのか、心配しているのです。」と仰った。目の前にいる雲水姿の我々を見て、母親として修行中の息子とオーバーラップしたのだろう。経済的には豊かとは言えぬ田舎寺だったが、つつましく生き、息子の無事な帰山を千秋の思いで待っている母親の姿に心打たれた。その時の囲炉裏談義の飛騨弁は、独特の抑揚と、語り口に情が籠もって、何とも良い感じだった。兎角方言は泥臭く無骨で凡そ洗練された言葉とは言えないが、そのごつごつした中に、優しさがじ〜んと伝わってくるようで、美しい日本語を再発見したように思った。
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