ところで好きなことも一方では近所迷惑になることも多い。しかしだからといって近所迷惑を恐れる余り、何も出来なくなったのでは、人生つまらぬ。そこで近所迷惑を知りつつ、それでも尚好きなことをやって行くところに、人生の面白みが出てくるのではなかろうか。知人の鮎釣りは別段近所迷惑と言うことはなく、むしろ釣った鮎を知人に差し上げ大いに喜ばれるから、これなどは近所歓迎の趣味と言える。しかしもう一方で、好きなことの一つに、「善行」をしたいという人がある。これで一番困るのは良いことをしていると思っている為に、近所迷惑の自覚が全くないところである。 例えば、老人ホームへボランティアへ行く。行けばやたら親切に振る舞う。老人の方も誰かに甘えたいものだから何やかや要求する。それに応じていると、老人も嬉しくなって、平素は出来ないことまでするようになる。これは確かに素晴らしいことで、しかも無償でやっているのだから、間違いなく「善行」と言えよう。しかし施設ではこういう人が時たま来てくれると、後で苦労する。甘える味を覚えた老人は、今まで自分で出来ていたことまでしなくなって、他人に頼るようになってしまう。施設側の人達はいちいち応じる訳には行かない。老人と言えども出来る限り自立的に生きて欲しいのである。時に、この老人がボランティアの誰それさんは優しいが、ここの人は冷たいなどと言い出すと施設の人は面白くない。そうなってくると次ぎにボランティアの人が来たとき余り歓迎しなくなる。そこで、あれっ、と気づき、施設の人と話し合うような人であれば本当に素晴らしいが、多くは他人の気持ちを一向察せず、そのまま平気でまたやって来る。物事には限度があるから、遂に施設側から来所を拒否されたり、板挟みになった老人からも無愛想にされたりで、破局を迎えることがある。さらに手を付けられないのは、こうなった時に、折角善行でやっているのにあの施設は何だ!と、他の施設に移り、渡り鳥的善行を繰り返す人まであるらしい。
ここで思うのは、本当に善行をしたいと望むなら、微に入り細にわたって行わねばならぬということである。施設の人の不機嫌を感じ取ったら、何故なのだろうと考え、また老人があれやこれやと欲することに応じることが果たして本当に意味のあることなのか、考え直してみる必要がある。そうしないと、善が善にならないどころか、有害なことにさえなってくるのだ。 |