さて、このダイアログ・イン・ザ・ダークとは、完全に光を遮断した空間に小川や橋、芝生、市場の屋台といった町並みが再現され、参加者は触覚や聴覚を頼りに歩いて体験する。誘導するのは視覚障害者スタッフである。つまり五感の中心である視覚は遮断し、逆に他の五感を解き放つというアイデアである。暗闇を巡るときは案内役一人につき数人のグループで移動し、途中で一人はぐれるようなことがあれば、忍者の如く現れ連れ戻してくれる。その的確さ素早さは、人がこんなにも優しいものなのかと、暗闇の恐怖を忘れ、温もりさえ感じるのである。
谷崎潤一郎は随筆「陰翳礼讃」の中で、「…欧州には黒と白しかない。しかし日本にはその間に無数の微妙な陰影を持った文化がある。」と言っている。この不思議な展覧会の体験談では「満員電車では人と触れるのが嫌なのに、暗闇では安心する自分に気付き、人とのつながりを嬉しいと思えるようになった。」と体験記を書いている。ハイネッケ氏が「暗闇は人を元に戻す」と言うように、肩書、地位といったものは闇の中では何の役にも立たない。立派な身なりも綺麗な容姿も見えない。全てを脱ぎ捨てた素の人格のみが現れるである。
以前、「耳を澄ませば」という新聞のコラムを引用させていただいたことがあるが、近年どうも我々は視覚ばかりに頼って他の五感を失っているのではないか。視・聴・嗅・触・味の五感はそれ相当の割合で保たれているのが望ましい。生まれた時からテレビで育った世代は視覚が突出して高く、八割前後を占めている。そこで時々目を閉じて外界の物音に耳を澄ませてみて欲しい。例えば鬱蒼と茂る翠の林の中の小鳥たちの鳴き声に耳を傾ける。そのさえずりには喜びがはっきりと感じられ、嗚呼新緑の季節が巡ってきたのだな〜と、のどかな日差しの下、こちらも幸せな気分に浸ることが出来る。ラジオに耳を集中させればどうなるか。それが野球の実況中継とすれば、アナウンサーの「大きい大きい!」という大きな声が聞こえてくる。その声に合わせて大飛球を思い浮かべながら、脳のスクリーンの絵柄を変えることで、聴覚と連動した想像力は逞しく育って行く。子供の頃、赤銅鈴之助や笛吹童子のラジオドラマに聞き入った。画面のないドラマに想像力をかき立てられ、こんな顔の少年が、こんな衣装を身につけ、こんな風に大活躍したと、どれ程胸を踊らせたことか。テレビのように画像で決めつけられない分、一層広がりのある自分流の映像を創造することが出来たのである。人間の脳が他の動物と決定的に違うのは、言葉の他に「未来を見る」能力があることだそうだ。未来を見るとは創造することと同じで、その能力には相手の気持ちを推し量ることも含まれる。そう考えると、想像力は相手を思いやる優しさや、人間性とも深くかかわってくるわけである。 |