妙心派下十九ケ僧堂の師家が当番制で、朝昼晩と、雲水の参禅を聞く。そんな中で、一人の老雲水が参禅にやってきた。ふと見ると彼は嘗て私と一緒に僧堂で修行した同僚である。私より年は三つ四つ上だから、既に七十歳を超えている。黄檗宗門下で、雲水時代は実に厳しい人で、下の者は随分絞られた。自坊に帰ってから暫くして、自分の寺を専門道場として再興、老いてますます意気軒昂である。しかし九州の果てにあるという地理的条件や、黄檗門下の道場と言うこともあり、店開きはしたものの、なかなか雲水は集まらないのが悩みの種のようだ。雲水当時は私なども彼から随分びしばしとやられたくちだから、時を経てこういう形で相見える事になるとは、想像もつかないことであった。その時彼はこんな事を言った。「飯台座に常山が出てきたときには感激の余り涙がこぼれたよ。」これには少し経緯をお話ししなければならない。
正眼僧堂では六月に入ると直ぐに三人一組になってリヤカーを引き、周辺の川の畦に出掛ける。そこには大抵通称「臭木」と言われる背丈一メートルぐらいの雑木が群がり生えている。葉っぱは手のひら程の大きさで、ちょっと揉むと、これが酷い悪臭を放つ、何とも厄介なものである。当に名前の通りで、どだいこんなものが食用になるのかと疑いたくなる代物である。勿論土地の人もこれを食用にはしていないばかりか、むしろ厄介ものなのである。この嫌われものを、何と開山さんは食用にしてしまったのだ。正眼寺の開山さんは、妙心寺へ出られるまでの九年間、伊深の山里でそれまでの身分を隠し、もくもくと聖胎長養、悟後の修行をなさっておられた。今から六百数十年も前の事だから、屹度冷害や飢饉など日常的にあったに違いない。そう言う万一の備えのために、どんなものでも食用にする智慧を、村人に身を持って示されたのではないかと思う。そうでなかったらわざわざあのようなものを食べようなんぞと誰も考えまい。
さてリヤカー一杯に積んで持ち帰った臭木の葉っぱを一枚一枚はぎ取り、集めたものをぐらぐら煮えたぎったハソリに放り込む。暫く煮るうちに湯が濃緑色に成った頃合を計って大笊に移し替え、即座に山奥の清水が湧いている通称洗濯場へ持って行く。予め樽を幾つも用意し、満々と水を張った中へ入れる。この作業を何時間も繰り返し、積んできた全ての臭木の葉を湯がく。季節は六月始めの蒸し暑く、じっとしていても汗が吹き出てくる時期だから、釜焚き役は当に地獄である。夕方頃には全ての作業を終え、洗濯場に幾つもの樽が並ぶ。それから一週間、副随は毎日この樽の水替えを遣らなければならない。背丈程もある大樽だから水替えも容易の事ではなく、この時ほど、臭木が恨めしく思うことはない。毎日水を換えて晒すと、さすが臭かった葉っぱも、殆ど臭みは抜け、鼻を近づけても何も匂いはしなくなる。それからがまた大変で、今度は葉っぱを笊に開け、本堂前に広げた葦簀に、一枚一枚丁寧に広げて干してゆくのである。カンカン照りの中、くちゃくちゃになっている葉っぱを丁寧に広げるだけでも大変だ。然も作業する者もそのカンカン照りの真っ只中で遣らなければならないわけだから、臭木の葉っぱと一緒に、こっちまで干し上げられてしまうほどだ。これを殆ど一日中やり、何日も続くわけだから、今にして思えば、よくぞ熱中症に成らなかったものだ。 |