静かな環境
 
 私が修行した道場は田舎の、然も山の中腹に在った。幾段もの階段を上りながら参道を進むと、左手の山との間に田圃が広がり、反対側には鬱蒼とした森に囲まれた方丈池が満々と水を湛えている。さらに急峻な階段を右に曲がり左に曲がり上り詰めるとやがて山門が現れ、そこからまた階段を上って漸く本堂の前に出る。寺は本堂に至るアプローチが重要と聞いたことがあるが、息も弾んできた頃、忽然と巨大な本堂が目の前に現れたときは、感動さえ覚える。こういう良い参道を備えている寺は、既に万言に勝る説法をしているのと同じである。ここでは、自動車の騒音や町中で良くある物売りのスピーカーのけたたましい音、その他人間がごちゃごちゃ住んでいるために出てくる人工的な音は一切ない。あるのは小鳥のさえずり、山を吹き抜ける風の音、夜静まりかえった空中を、ムササビがヒューと飛び交う音くらいなもので、それは静寂そのものである。

 また僧堂では早朝と夜、一日二回参禅がある。夕方は日が沈む頃から禅堂で坐禅が始まるが、その前の僅かなひととき、南敷き瓦から眺めた夕焼けの美しさは今でも忘れられない。心の中は参禅に行き詰まり真っ暗闇、待ったなしで、老師の前に行って見解を呈せねばならぬ。このように崖っぷちに佇んだ時、金色に輝く夕空は何よりの救いだった。その後幾度か夕焼け空を眺めることがあったが、この時の美しさに勝る夕焼けはいまだにない。人は心で物を見ていると言うが、何の変哲もない景色も見る者によって、大きな意味を持つのである。
さてこういう良い環境は一般的にはない。塀一つ隣り合わせに家がびっしりと建って、大声を発することも近所迷惑となる。親戚の者が亭主の転勤で尾張旭市の住宅街に住んでいたことがあるが、早朝雨戸をガラガラと開けていたら、お隣さんから文句を言われてしまったと言う。こうなると、お互い息を潜めて暮らさなければならないわけで、日常嫌でもおうでも出てしまう生活音でさえ、いちいち気にしながらの生活となる。
中国明末の洪自誠が著した「菜根譚」の中にこういう一節がある。『静かな場所で、考えが澄み切っていると、心の本当のあり方を見ることが出来る。ひまな時に気持ちがゆったりと落ち着いていると、心の本当のはたらきを知ることが出来る。あっさりとして心がわだかまりなくおだやかであると、心の本当の味わいが得られる。心の鏡に写して自分の本心を見極め、真実でいつわりのないすがたを悟るのは、この三つの方法に及ぶものはない。』
と、こう言われてしまえば、町の騒音の中、やむなく住まざるを得ない我々は、全く立つ瀬はないが、「四条五条の橋の上行き交う人を深山木に見て」と言う句もあるので、諦めることはない。ある人が家でじっと坐禅を組んだのだが、自分の心境が澄んでくればくる程、どうも周りの騒音が気になって仕方がない。こんな所で幾ら頑張ってみても、本格的な坐禅は組めないと考え、出来るだけ山奥の静かな場所を見つけて、そこで坐ることにした。暫くすると、今度はざわざわと風に揺れる木々の音が喧しく、気になって仕方がなく、ついにまた元のところに舞い戻ったという話しがある。この世に無音のところなどないのだが、自然な音と人工的な音とは矢張りどこか違う。人工音は騒音に聞こえ、自然音は心癒されるのである。菜根譚にはまたこういう一節もある。『静かな環境の中で心を静かに保つことが出来たとしても、それは本当の静かな心ではない。わずらわしい環境の中でも心を静かに保つことが出来るようになったなら、それでやっと本来の天から与えられた本当の心の境地であるということが出来る。安楽な環境の中で心の楽しみが感じられたとしても、それは本当の楽しみではない。苦しい環境の中にあっても、心が楽しむことが出来れば、それでやっと本来の心の真実のはたらきを知ることが出来る』。  よく人は長年坐禅を組んで修行をしてきたら、いつも心は平安で、自分達のように悩み苦しむことはないでしょうねと言うが、そんなことはない。修行してもしなくとも変わりはなく、強いて言えば、喜怒哀楽に執着しなくなったことである。喜怒哀楽の原因を向こうにあると思うのではなく、自分の心の持ち方一つだと知る。だから師匠は何時こう言っていた。「楽しみはその内にあり」と。

 さらに菜根譚より引用する。『静かな夜に鳴り響く鐘の音を聞いていると、夢中の夢が呼び醒まされ、澄みわたった深い淵に映る月影に見入っていると、この身以外の真実のわが身が、ほかにある事実をほのかに察知できるようだ』。遠くの寺の鐘声をを聞いていると、鐘の音がすっと消えるにつれて心の結ばれも解けて行く気がする。昔、吉野山の蔵王堂で、夕暮れ時に向かいの山から殷々と響く鐘の音を聞き、それが深く心に刻み込まれ、その後の人生に大きな影響を与えられたことがある。清らかに澄んだ水をたたえる淵に映る月は、自分の肉体はこの月影のように虚の姿、真実の自分は俗世間の外にあると教えられる。「月影のいたらぬ里はなけれども、眺むる人の心にぞすむ」という歌がある。仏の慈悲の光は届かぬところはない。月を眺めるとは信ずることであり、仏光はこの世にあまねく在り、清浄な心に住まるのである。静かな環境で、静まった心になって初めて、真実の姿が見えるのだ。

 

 

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