また僧堂では早朝と夜、一日二回参禅がある。夕方は日が沈む頃から禅堂で坐禅が始まるが、その前の僅かなひととき、南敷き瓦から眺めた夕焼けの美しさは今でも忘れられない。心の中は参禅に行き詰まり真っ暗闇、待ったなしで、老師の前に行って見解を呈せねばならぬ。このように崖っぷちに佇んだ時、金色に輝く夕空は何よりの救いだった。その後幾度か夕焼け空を眺めることがあったが、この時の美しさに勝る夕焼けはいまだにない。人は心で物を見ていると言うが、何の変哲もない景色も見る者によって、大きな意味を持つのである。
さてこういう良い環境は一般的にはない。塀一つ隣り合わせに家がびっしりと建って、大声を発することも近所迷惑となる。親戚の者が亭主の転勤で尾張旭市の住宅街に住んでいたことがあるが、早朝雨戸をガラガラと開けていたら、お隣さんから文句を言われてしまったと言う。こうなると、お互い息を潜めて暮らさなければならないわけで、日常嫌でもおうでも出てしまう生活音でさえ、いちいち気にしながらの生活となる。
中国明末の洪自誠が著した「菜根譚」の中にこういう一節がある。『静かな場所で、考えが澄み切っていると、心の本当のあり方を見ることが出来る。ひまな時に気持ちがゆったりと落ち着いていると、心の本当のはたらきを知ることが出来る。あっさりとして心がわだかまりなくおだやかであると、心の本当の味わいが得られる。心の鏡に写して自分の本心を見極め、真実でいつわりのないすがたを悟るのは、この三つの方法に及ぶものはない。』
と、こう言われてしまえば、町の騒音の中、やむなく住まざるを得ない我々は、全く立つ瀬はないが、「四条五条の橋の上行き交う人を深山木に見て」と言う句もあるので、諦めることはない。ある人が家でじっと坐禅を組んだのだが、自分の心境が澄んでくればくる程、どうも周りの騒音が気になって仕方がない。こんな所で幾ら頑張ってみても、本格的な坐禅は組めないと考え、出来るだけ山奥の静かな場所を見つけて、そこで坐ることにした。暫くすると、今度はざわざわと風に揺れる木々の音が喧しく、気になって仕方がなく、ついにまた元のところに舞い戻ったという話しがある。この世に無音のところなどないのだが、自然な音と人工的な音とは矢張りどこか違う。人工音は騒音に聞こえ、自然音は心癒されるのである。菜根譚にはまたこういう一節もある。『静かな環境の中で心を静かに保つことが出来たとしても、それは本当の静かな心ではない。わずらわしい環境の中でも心を静かに保つことが出来るようになったなら、それでやっと本来の天から与えられた本当の心の境地であるということが出来る。安楽な環境の中で心の楽しみが感じられたとしても、それは本当の楽しみではない。苦しい環境の中にあっても、心が楽しむことが出来れば、それでやっと本来の心の真実のはたらきを知ることが出来る』。 よく人は長年坐禅を組んで修行をしてきたら、いつも心は平安で、自分達のように悩み苦しむことはないでしょうねと言うが、そんなことはない。修行してもしなくとも変わりはなく、強いて言えば、喜怒哀楽に執着しなくなったことである。喜怒哀楽の原因を向こうにあると思うのではなく、自分の心の持ち方一つだと知る。だから師匠は何時こう言っていた。「楽しみはその内にあり」と。 |