ある日、尼僧から六月一日に相見をお願いしたいという連絡が入った。実は私の心の中の半分は、途中挫折し、とっくに岩手へ引き上げているのではあるまいかと思っていた。ところがまったく以前と変わらず、元気一杯溌剌とした顔でやって来て、開口一番、「昨年六月一日に出立して、今日六月一日で、満一年になりました。」と頬を紅潮させ誇らしげに胸を張って言う。「本当にお前はやり遂げたんだな〜。偉い!」と褒めてやった。聞けばその後、山陽道から九州を一巡、日本海側ルートをたどって再び岐阜へ戻ってきたという。 キャンピングカーでの移動だから、どこでも休めるわけで、食料さへ確保すれば気楽な一人旅を満喫できそうに思えるが、実はそんな訳にもいかないらしい。夜間駐車の場合も、やたらのところへ勝手には止められず、いろいろ考えた末、道の駅の駐車場を利用するのが一番良いと解り、専ら利用したそうだ。そう言うところなら水の補給やトイレの利用も出来て、大変便利だと言う。風呂はどうしたのかと聞くと、時々銭湯へ行って汗を流す。いずれにしてもそれなりの配慮と、安全の確保が必要で、旅を続けるうちにだんだんと要領も覚えて、旨くいくようになったと言う。
さていろいろ道中の話を聞き終わったところで、「この一年間、托鉢修行で一番感じたことは何だったか。」と質問した。するとちょっと間を置いてから、「一日生きることが如何に大変かと言うことが解りました。」と言った。それはどういう事かと更に尋ねると、「田圃や畑や畦道で、必死に餌を啄んでいる小鳥の心境が少し分かるようになりました。」と言った。つまりこういう事なのだ。毎日托鉢を続けるのは大変なことで、もう今日は止めておこうかと考えることがいくらでもあったそうだ。一日中キャンピングカーで寝ころんでいたとしても、誰に憚ることはない。しかし、そんなことでは駄目だと考えるもう一人の自分が居て、弱い自分とそれを乗り越えようと必死になる自分との日々戦いだったという。一端負けたら今までの願心も努力も水泡に帰する。それを乗り越えて生きることの大変さを痛感したという。雨の中必死に餌を求めて啄む小鳥を見ていたら、ここで挫折したら小鳥にも劣ると思い、そう言う葛藤の日々が一番苦しかったという。では何が一番楽しかったかと聞いたら、朝から篠を突く大雨の日だそうだ。こうなると、とても托鉢に成らぬと諦めがつき、朝からごろりっと横になって読書をしたという。お前さんも連日托鉢で疲れただろうから今日一日はお休みしなさいと、天の神様が与えてくれた休息日だと思って、心置きなく休めたそうだ。 |