それによると、今年の元日、家族揃ってお節料理を食べたのだが、どうもいつものように美味しくない。年末頃よりやや食欲も衰え、少し胃の当たりが気にはなっていた。しかしその日はさらに調子が悪く、ついに晩から全く食事が喉を通らなくなってしまった。二日・三日とも全く食べたくないので、さすがに異変を感じ医者に診て貰おうと考えた。しかし正月中でどこも休診、困り果てたとき、ふと友人で心療内科の医者が居ることを思い出し、早速電話をすると直ぐお出で下さいというので出掛けた。友人はお腹の辺りを触診すると、知り合いの病院を紹介するから、精密検査をするよう勧められた。翌日出掛けいろいろ検査をしたところ、即入院、手術を宣告された。そこで大学のこと、そのほか諸々の仕事のことを考え、入院は成るべく短期間にして欲しいと言うと、担当医はちょっと顔を曇らせ、そんな生易しい状況ではないと言う。詳しく説明を求めると、既に癌は胃全体に広がり、他の臓器へも転移が見られ、手術はもはや不可能だと言うのである。さし当たって、現状では食事が全く摂れないので、食道から腸へバイパスを通す手術をする。後は抗癌剤で少しでも延命を計る方法があるという説明であった。しかし抗癌剤による副作用で、二次的苦痛を堪え忍ばなければならないことを考えた時、一切の延命治療は止めて、このままで生きられるだけ生きるという決断を下したというのである。一月の時点で余命半年と宣告されたわけだから、六月十日の今日の講義は、通常で行けば成り立たないのだが、約二時間立ちっ放しで演台と黒板の間を行き来しながら精力的に話しをされた。
冒頭に先生はこう言われた。「死を覚悟してじっと自分の人生を振り返り考えた。私がこの世に存在する理由は果たして何なのだろうか。学長をしていると言っても、私でなければならないと言うことはない。居なくなればその代わりは幾らでも居る。では朱子学研究の分野ではどうかと考えると、私が居なくなっても他の研究者が幾らでも居る。また家族にとって私の存在は何なのかと考えると、確かに掛け替えのないものかも知れないが、死んだ直後や精々一周忌ぐらいまでは想い出してくれる。しかし三周忌にも成れば、すっかり忘れ去られ、皆で顔突き合わせてハワイにでも行こうかと相談するのが関の山。そのように私でなければならない存在理由は、結局何もないと言うことが分かった。」 |