九十九歳の握手
 
  四十数年も前のことになるが、私が京都で小僧をしていた頃、寺では京都市内の大学へ通う学生相手に下宿屋のようなことをやっていた。寺の寮や庫裡や本堂の空き部屋に、多いときは七,八人もごろごろ居た。夕食は当番制で一人が皆の分を作り、費用は頭割りだったが、和尚と私は特別で、費用は出すものの当番は免除されていた。大学生だから四年経てば順次卒業して行くため、毎年少しずつ顔ぶれが変わったが、私も相前後して十数年間出入りしていたので、相当な人数の学生と面識を得た。そうは言っても単に下宿屋の小僧と学生という関係だから、顔を知っている程度で、その後お目に掛かることもなく、親しく交流することもなかった。そんな中で、娘さんが四年ほど下宿をしていた名古屋のMさんとは、僧堂時代も、鎌倉へ住職した頃も、また岐阜へ来てからも、何かと行き来を続けていた。当の本人とはぶっつり縁が切れてしまっても、却って母上と交流が続いた。十数年前、八十五歳頃、「あなたにお目に掛かれるのもこれが最後だと思います。」と、お手伝いさんに手を引かれながらやって来た。久しぶりだったので、すっかり体も顔も小さくなって、最初は誰だか解らなかったほどだ。

ご主人は高名な弁護士で、現役でご活躍の頃は、依頼は引きも切らず、亡くなる寸前まで多忙を極めていた。やがてそのご主人も亡くなり独りぽっちになって、晩年は孤独な生活振りだったようである。勿論子供さん達は、それぞれ独立しながらも近くに居るのだが、親子関係があまりしっくりいっていなかったようだ。お金に苦労することはないが、大きな屋敷にぽつんと一人きりでの生活は、いかばかりかと察し胸が痛んだ。気にはなりながらその後お目のかかる事もなく月日が経った。ある時、弁護士をされている長男に、法律のことで聞きたいことがあったので電話をした。その折り、「ところでお母さんはまだご健在なんでしょうか。」とお尋ねすると、「ついこの間、五月九日に満九十九歳の誕生日を迎え、お祝に花束を贈ったところです。」と言われた。聞けば数年前より寝たきりとなり、認知症も進んで、会ってもほとんど誰だか解らないようだと言う。こんな遣り取りがあってから、急に気に成りだし、生きている間に一度顔を見に出掛けてこようと思った。ところがどこの病院に入院しているのかさえ全く解らない。困り果てた末、昔の電話帳に載っていたお宅へ電話すると、転送されて次男の方へ繋がった。ざっと事情をお話しし、場所を尋ねようやく所在が解った。現在は付添婦を二十四時間付けていると言うが、全く面識もなくご本人も認知症となればさすがに不安を感じ、末娘に電話をして、一緒に行って貰うことにした。待ち合わせ場所にやつて来た四十数年振りに会う彼女は全く顔が変わってしまっていて始めは誰だか解らず、まるで浦島太郎のようだった。そこから十分ほど歩くと病院があり、早速病室を尋ねると、生憎ご本人は就寝中、暫くその辺で暇を潰して出直して下さいと言われ、仕方なく二人で喫茶店へ入った。そこでようやくほっと一息ついて、四十数年間の積もる話しをした。彼女は現在レストランや喫茶店を何軒か経営する女実業家として溌剌と活躍していると言う。学生時代には想像もできない変わりようで、目を丸くして話を聞いているうちに時間が経ち、再び病室を尋ねた。今度は良いことに起きていると言われほっとしたものの、私が見たのでは起きているやら寝ているやら分からない。すっかり顔も変わってしまい、少し口を開けてうつろな目で見ている様は、嘗ての凛とした姿からは想像も出来ないことで、それを見ただけでも胸が詰まった。娘さんが耳元で大きな声を出して、「おかあさん!岐阜から清田さんが会いに来てくれましたよ!」と言うと、微かに目が動いたように見えた。私も耳元に口を寄せて、大きな声で言葉を掛け、痩せて骨ばかりになった小さな手を握った。握手と思ったが手の大きさが違いすぎて無理なのだ。そこで人差し指を握らせると、何度も握り返して、少し上下に動かしているのだ。近年は殆ど無反応だと言っていたが、少なくとも私の手には微かだが反応を示してくれ、みるみるうちに、魂の抜け殻のようだった顔に生気が蘇り、顔つきもしゃきっとしてきたのには、その場に居合わせた三人とも驚いた。

始めお見舞いに行くと言ったとき、来て頂いても本人は全然解りませんから、それでも良かったらどうぞと言うことだった。私は別にそんなことはどうでも良いので、生きている間に会って置こうと考えただけである。人は喋れなければ何も通じないと思うかも知れないが、そんなことはない。禅の公案にも「世尊良久」というのがある。悟りとは何でありましょうかという問いかけに、お釈迦様はただ黙って佇まれた。これが立派な答えである。これで解れと言われても、そりゃ無理だという者には、人の心は永久に解らない。万言に勝る無言というのもあるのだ。九十九歳の老婦人の痩せ細った手が、微かに握りしめている力を人差し指に感じながら、私はMさんと無言の会話をしたのである。

 

 

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