さて、もう一方のルーズソックスだが、あれはいわば畳のへり、袖口、半襟などと同じだと言えまいか。少女達はどこかで日本文化と繋がっている。つまり学校で許可された中から「へり」の部分を見つけて、やわらかさを表現しているのだ。これらの柔らかではかないコミュニティーを都市社会に作って緩やかに結びつけているのである。はかない仮置きのコミュニティーだから、直ぐにお母さんにもなれるし、ちゃんとした勤め人にもなれるのである。
ファッション界をリードする三宅一生さんは一枚の布で日本の独自性を表現している。彼は、「ぼくはお米が哲学なんだ。コメを哲学にかえて、それでデザインしている」と言っている。また、破れたジーンズをはいている若者達を、一種のわびさびだと言ったアメリカ人の作家がいたが、あれはむしろ「やつし」というものである。わびさびとは本来、「もっと持ち合わせがあれば、このぐらいのものをお出ししたいのに、残念ながらこれだけです」とか、「いらしていただいたのに、良い料理もないし茶碗もないので、ごめんなさい」と言って出すのが「わび」であり「さび」である。それからするとジーンズが破れているのは、本当は持ち合わせが無くて破れているのではなく、自分でわざわざ破っているわけだから、あれは「やつし」です。やつしとは本当は上等なものを、はずして使う感覚で、着物の裏地に凝ったり長襦袢に凝ったりする遊び心と同じである。つまり日本には、「引き算の美」がある。何かを引くことによって、逆に何かがあることを感じさせるのである。
幕末から明治初頭にかけてやって来た外国人は、日本の細工レベルの高さに圧倒された。それは焼きものにしても、小物にしても、版画や染めもの、ありとあらゆるところに、日本的なものがあった。嘗て日本の職人は、自分の命をものに入れていたのである。お金のためにだけ作っていたのではなく、「魂を入れる」のである。先日もテレビを見ていたら、自然発酵の酵母菌を使ってパンを作っている職人が居た。彼は元々パンを大量生産する機械をセールスしていたのだそうだが、ある時体中から発疹が出て、原因が製造過程で大量に入れられる化学物質にあると感じ、総て自然なものでパンを作ることを考えた。確かに手間は掛かり、労力も大変なのだが、いまではその美味しさと職人魂が認められ、海外からも作り方を学ぶために沢山の人が来て、国内外で徐々に広まっているそうだ。他にも造り酒屋さんで、酒は人の体を害する。飲み過ぎると健康に良くないと言うことにショックを受け、真剣に何とかしなくては成らないと思ったそうだ。それで何をやったかというと、感謝と喜びの気持ちをお酒に入れようと考えた。嘗ては作る人も受け取る側も、感謝と喜びの気持ちを持っていた。おコメを食べるときはお百姓さんに感謝しろ!と言われたし、魚を残すと、漁師さんは大変だったのだ!と言われた。生産する側にも消費する側にも「感謝」があった。ところがいつの間にかその最も大切な気持ちが抜け落ちてしまったのだ。
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