職人の魂
 
  以前ガングロというのが若い女の子達の間で流行ったことがある。顔を茶褐色に塗って口は真っ白、付け睫毛はやたらに派手で、まるでアフリカの人形のようだった。最初にこれを見たときは、なんだこりゃ~!と、化け物を見るような気がした。この化粧のどこが良いのかまったく理解に苦しむ。どうせ落ちこぼれの跳ねっ返りが、目だちたいだけでやっているくだらぬ流行と考えた。またその頃、女子高生の間でルーズソックスというのも流行った。何であんなものが面白いのか、どういう気持ちでやっているのか、全く解らなかった。ところが松岡正剛、エバレット・ブラウンの対談集を読んだら、ガングロにしてもルーズソックスにしても、それなりの意味があるというのである。例えばガングロだが、ジョンガリアーノなどが、海外のファッションショーに取り入れたり、非常に刺激されてヒントを受けているという。どうも若者のファッションを撮っている週刊誌などは上からの目線で、ちょっと批判的で、最初から落ちこぼれの若者という感じで取り上げたのに、影響されていたようである。実際に彼女たちと話してみると随分印象が違う。これは村を作って祭りを作ろうとしているのだと考えると、むしろとても健全なことなのではないかと思えてくるのである。メディアやオピニオンリーダーは学校の成績は良いかも知れないが、彼女たちはそういう偏差値教育に違和感を感じ、○×でいえば×なのだが、○×で捉えられない別の生き方を示しているのである。実際、彼女たちのその後の人生を見てみると、結構頑張って良いお母さんになっている。

 さて、もう一方のルーズソックスだが、あれはいわば畳のへり、袖口、半襟などと同じだと言えまいか。少女達はどこかで日本文化と繋がっている。つまり学校で許可された中から「へり」の部分を見つけて、やわらかさを表現しているのだ。これらの柔らかではかないコミュニティーを都市社会に作って緩やかに結びつけているのである。はかない仮置きのコミュニティーだから、直ぐにお母さんにもなれるし、ちゃんとした勤め人にもなれるのである。
ファッション界をリードする三宅一生さんは一枚の布で日本の独自性を表現している。彼は、「ぼくはお米が哲学なんだ。コメを哲学にかえて、それでデザインしている」と言っている。また、破れたジーンズをはいている若者達を、一種のわびさびだと言ったアメリカ人の作家がいたが、あれはむしろ「やつし」というものである。わびさびとは本来、「もっと持ち合わせがあれば、このぐらいのものをお出ししたいのに、残念ながらこれだけです」とか、「いらしていただいたのに、良い料理もないし茶碗もないので、ごめんなさい」と言って出すのが「わび」であり「さび」である。それからするとジーンズが破れているのは、本当は持ち合わせが無くて破れているのではなく、自分でわざわざ破っているわけだから、あれは「やつし」です。やつしとは本当は上等なものを、はずして使う感覚で、着物の裏地に凝ったり長襦袢に凝ったりする遊び心と同じである。つまり日本には、「引き算の美」がある。何かを引くことによって、逆に何かがあることを感じさせるのである。
幕末から明治初頭にかけてやって来た外国人は、日本の細工レベルの高さに圧倒された。それは焼きものにしても、小物にしても、版画や染めもの、ありとあらゆるところに、日本的なものがあった。嘗て日本の職人は、自分の命をものに入れていたのである。お金のためにだけ作っていたのではなく、「魂を入れる」のである。先日もテレビを見ていたら、自然発酵の酵母菌を使ってパンを作っている職人が居た。彼は元々パンを大量生産する機械をセールスしていたのだそうだが、ある時体中から発疹が出て、原因が製造過程で大量に入れられる化学物質にあると感じ、総て自然なものでパンを作ることを考えた。確かに手間は掛かり、労力も大変なのだが、いまではその美味しさと職人魂が認められ、海外からも作り方を学ぶために沢山の人が来て、国内外で徐々に広まっているそうだ。他にも造り酒屋さんで、酒は人の体を害する。飲み過ぎると健康に良くないと言うことにショックを受け、真剣に何とかしなくては成らないと思ったそうだ。それで何をやったかというと、感謝と喜びの気持ちをお酒に入れようと考えた。嘗ては作る人も受け取る側も、感謝と喜びの気持ちを持っていた。おコメを食べるときはお百姓さんに感謝しろ!と言われたし、魚を残すと、漁師さんは大変だったのだ!と言われた。生産する側にも消費する側にも「感謝」があった。ところがいつの間にかその最も大切な気持ちが抜け落ちてしまったのだ。


職人の技についてだが、たとえば能管を作る職人は、コケを取ってきて、最後に漆にまぶして仕上げるという「いい音を皆さんに伝えたい」と言うことだけを思い続け、その人が初めてそう言うやり方を見つけたのだそうだ。彫刻家なども、「木から仏像を引き出す」という。十二,三世紀に庭師が書いた「作庭記」などにも、「石の乞はんに従え」、という有名な言葉がある。つまり石が欲しがっていることに従いなさいと言うことである。自分が置きたいところを探すのではなく、石を見て、この石はここにいたいんだなと言うことを感じて、それに従って置きなさいというわけである。日本の職人さんはものと心は分離出来ないという立場なのだ。四季折々の美しい自然の中に囲まれて、万物を神として崇め、尊ぶ自然観が脈々と流れている。これこそ日本人が先祖から受け継いだ何にも代えがたい宝なのである。

 

 

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