ところで死ぬときの苦しみは、生きている長さに比例すると言われている。例えば蜻蛉のように朝に生まれ暮れに死ぬはかない生命の場合は、短いだけにその死もあっけなく、苦しみは一瞬である。それに比べて、平均寿命の長くなった現代日本人は、優れた医療設備や優秀な医者、看護師の手厚いケアーによって、長く生き延びることが出来るようになった。しかしそれは逆に言えば、死のうにもなかなか死なせて貰えないと言うことでもある。死ぬまでの時間が長ければ、苦しみの時間も長いのである。この様に生老病死の四苦は人間の避けがたい宿命であり、万人に訪れるものである。
さて肉体の死とともに、霊魂は浮遊すると仏教では言う。肉体は抜け殻となり、荼毘に付される。だから仏教本来の立場に立てば、お骨はただのものとなるのである。さて、霊魂はやがて中陰という時間帯に入る。その長さは四十九日である。その間に次ぎに生まれ変わる場所が定まる。即ち因果応報によって生まれ変わるのである。さてどこへ生まれ変わるのかだが、ランクが六つある。最高は天上界、すなわち神に生まれる。その次は人間界、六番目の最下位は地獄である。その他、餓鬼界・畜生界、修羅界など、総て動物の世界である。先程も申し上げたとおり、生は苦しみなのだから、生まれ変わると言うことは、再び苦しみが始まることである。生き、病み、老い、そして死を迎え、再び中陰を迎え、その次ぎにまた生まれ変わる。この様に繰り返し、ぐるぐる何度も循環するわけでだから、丁度車の輪が廻るようなもので、この苦しみの循環を、「輪廻転生(りんねてんしょう)」というのである。しかし、永遠に輪廻転生していたのでは救いがないので、その束縛から何とか解き放たれ、苦しみの世界から脱したいと願うことになる。すなわち解脱(げだつ)である。解脱とは仏になることで、仏になれば遂に苦しみから逃れられるのだ。以上が仏教における死の基本的考え方だが、結局解脱して成仏するか、それとも輪廻転生して苦しみ続けるか、そのどちらかと言うことになる。霊魂は天上界から地獄までの六つのどこかに生まれ変わっているわけだから、私の先祖はアメリカ人になっているかも知れないし、隣の犬になっているかも知れない。もし豚になっていたら、トンカツにして食べるわけにはいかないから、殺生はしないと言うことになるのである。以上が仏教の考え方である。 次ぎに儒教はどうなのか見てみよう。儒教を生んだ中国人は現実的・即物的である。この世に執着し、金銭への執着も徹底している。こうした彼らにも必ず死が訪れる。そこで即物的中国人にも納得のゆく死の説明が求められ、可能な説明をしようと努力したのが儒教である。では儒教はどのように説明したか。先ず一秒でも長く生きていたいという現実的願望から、やむをえぬ死後、何とかしてこの世に帰ってくることを考えた。しかし現実は死後肉体は腐敗し骸骨となるのだから、そこで人間を精神と肉体とに分け、精神を魂(こん)・肉体を魄(はく)とし、この魂・魄が一致している時を生きているとし、魂と魄が分離するときを死とした。すると理論的に言えば、逆に分離していた魂と魄を呼び戻せば生の状態になる。そこでどうしたのかというと、死者の肉体が時が経って白骨化したら頭蓋骨を残しておく。そもそもこれが墓の起源である。そうして命日には頭蓋骨を掘り出して生きた人間の頭にかぶせ、そこに魂・魄を馮(よ)りつかせる。香を焚き、酒を地上に注ぎ地下の魄を呼ぶ。こうして帰ってくる場所として形代(かたしろ)を作った。これがやがて木の板に代わり、仏教にも取り入れられ位牌となったのである。さて儒教ではこの招魂再生に一大理論体系を作った。先ず祖先を崇拝することと祖霊信仰を根幹とした。祖先の祭祀・父母への敬愛・子孫を生むこと、この三つを引っくるめて孝とした。普通は父母への敬愛だけを孝と考えやすいが誤りである。
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