縁を択ぶ
 
 三十数年前、当時鎌倉の寺に住職していたとき、知人の友人という方から電話があり、近々建長僧堂に掛搭したいので、前晩寺に泊めて欲しいという依頼があった。どうぞと申し上げると、間もなくして長身で一見ひ弱そうな雲水がやってきた。その日は生憎じゃじゃぶりの雨、カッパを羽織っているので法衣は濡れずに済んだものの、脚絆・足袋・草鞋はずぶ濡れであった。早速入浴して貰い、一息ついたところで夕食、食後どういう名前でどちらからお越しになったのか、またどうして建長僧堂に入門しようと思ったのかなど遠慮なく聞いた。彼は一度ある僧堂に掛搭したのだが、病気をしたため引いて、回復を待ち再度の修行と云うことであった。いかにも聡明な顔立ちで話し方にも無駄がなく、この男ならきっと頑張って長く修行をするだろうと思った。

やがて三年の歳月が流れた。当時管長で僧堂師家も兼ねていた老師が都合で京都の僧堂へ変わられ、大半の雲水も一緒に付いて移って行くらしいという噂を耳にした。そんなある日のこと、くだんの雲水が挨拶に来て、自分も京都へ移るという。彼なら当然そうするだろうと思っていたので、僧堂は変わっても同じ老師の元での修行、なお頑張るように激励して別れた。その後私自身も岐阜に転住し、お互い離ればなれになってしまった。やがて鎌倉に住職していた頃の親しい仲間と、毎年一回京都へ老師に挨拶に伺うようになった。そこには嘗て鎌倉にいた雲水達がわんさと居たので、僧堂は変わっても何だか気分は鎌倉の頃と少しも変わらず、「おい!元気でやってるか~。」というような具合で、交流が続いた。それからまた十年の歳月が流れ、年一回の集まりに出かけても彼の顔を見かけなくなった。聞けば別の僧堂に移ったらしいのだ。彼のことだから余程何か事情があって変わったに違いないと感じ、どこででも修行さえしっかり続けていれば良いと思った。彼は京都大学を出た秀才で、家業は大阪で小さな印刷屋を営んでいると云うことだった。男兄弟二人なのだが、二人とも出家して禅僧になり、共に修行をやりあげ老師となった希有な例である。弟の方が先に京都のある僧堂の師家になり、兄である彼はしばらく南禅寺塔頭に居候していた。その頃うちの寺で先住さんの語録を編纂することになり、昔の誼(よしみ)で彼に依頼し立派に纏めてくれた。しかし彼ほどの人物が他人の寺に居候とはいかにもしのびないと感じていた。それからまた何年か過ぎて、彼から電話で、今度南禅寺の塔頭に住職することになったので、晋山式に出席して欲しいという事であった。そこは大変由緒のある寺で、南禅寺の大衆禅堂老師として手腕を発揮して欲しいと請われての入寺と知った。いかにも彼に相応しいところだと大いに喜んだ。晋山式当日は、そぼ降る生憎の天気だったが、それが却って落ち着いた雰囲気を醸しだし、びっしりと生え揃った杉苔が青々と映え、立派な仏殿と相まって、素晴らしい境地の寺であった。そのとき控え室で偶然旧友と遭遇した。彼は最近、京都のある本山の管長に推挙されることになったのだ。数年前自坊を若い和尚に譲り、自分は山奥の草庵に引き籠もって、悠々自適の生活をしていた。それがいきなり中央に引っ張り出されて、お気の毒千万と慰めた。元々体に病気を抱え、いたわりながらの日々だと知っていたので、本心からご苦労を忍んだのである。「是非晋山式には来て下さいよ!」といわれ、喜んで出かけた。彼らは嘗て僧堂で修行中に先輩後輩の中で、お互いに認め合っていたので、この晋山式にも遠路出席したのである。

さて話は変わって、私が僧堂で修行していた当時、大変将来を嘱望された人がいた。同僚の目から見ても彼はきっと然るべき僧堂の師家となって、大活躍するだろうと思った。彼自身もやる気満々で、下手な者は側へも寄り付けない勢いであった。それから十数年の歳月が流れ、田舎の小さな寺の和尚に納まり家内を貰って、どこにでも居る平凡な男になってしまった。そうなっても未だに気概だけは溌剌として、老師として世に出たいという思いは捨てきれず、ついに自分の寺を専門道場にした。しかし日本列島の端っこでしかも山奥、道場を開いたと云っても殆ど世間に知られることもなく、老齢に鞭打って今なお頑張っている。それを偉いという見方も出来るが、どこか哀れな気がする。何も師家になるばかりが能ではない。彼の人生をずっと見てきて、やはり徳が無かったのだと思う。友人のように山奥に隠れていても人は放っておかない。彼はよき縁に恵まれたのだと云うことも出来るが、よき縁を択んで生きてきたと言えるのではないか。縁を択ぶということはそう簡単なことではない。自己との厳しい戦いなのだと思うからである。

 

 

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