やがて三年の歳月が流れた。当時管長で僧堂師家も兼ねていた老師が都合で京都の僧堂へ変わられ、大半の雲水も一緒に付いて移って行くらしいという噂を耳にした。そんなある日のこと、くだんの雲水が挨拶に来て、自分も京都へ移るという。彼なら当然そうするだろうと思っていたので、僧堂は変わっても同じ老師の元での修行、なお頑張るように激励して別れた。その後私自身も岐阜に転住し、お互い離ればなれになってしまった。やがて鎌倉に住職していた頃の親しい仲間と、毎年一回京都へ老師に挨拶に伺うようになった。そこには嘗て鎌倉にいた雲水達がわんさと居たので、僧堂は変わっても何だか気分は鎌倉の頃と少しも変わらず、「おい!元気でやってるか~。」というような具合で、交流が続いた。それからまた十年の歳月が流れ、年一回の集まりに出かけても彼の顔を見かけなくなった。聞けば別の僧堂に移ったらしいのだ。彼のことだから余程何か事情があって変わったに違いないと感じ、どこででも修行さえしっかり続けていれば良いと思った。彼は京都大学を出た秀才で、家業は大阪で小さな印刷屋を営んでいると云うことだった。男兄弟二人なのだが、二人とも出家して禅僧になり、共に修行をやりあげ老師となった希有な例である。弟の方が先に京都のある僧堂の師家になり、兄である彼はしばらく南禅寺塔頭に居候していた。その頃うちの寺で先住さんの語録を編纂することになり、昔の誼(よしみ)で彼に依頼し立派に纏めてくれた。しかし彼ほどの人物が他人の寺に居候とはいかにもしのびないと感じていた。それからまた何年か過ぎて、彼から電話で、今度南禅寺の塔頭に住職することになったので、晋山式に出席して欲しいという事であった。そこは大変由緒のある寺で、南禅寺の大衆禅堂老師として手腕を発揮して欲しいと請われての入寺と知った。いかにも彼に相応しいところだと大いに喜んだ。晋山式当日は、そぼ降る生憎の天気だったが、それが却って落ち着いた雰囲気を醸しだし、びっしりと生え揃った杉苔が青々と映え、立派な仏殿と相まって、素晴らしい境地の寺であった。そのとき控え室で偶然旧友と遭遇した。彼は最近、京都のある本山の管長に推挙されることになったのだ。数年前自坊を若い和尚に譲り、自分は山奥の草庵に引き籠もって、悠々自適の生活をしていた。それがいきなり中央に引っ張り出されて、お気の毒千万と慰めた。元々体に病気を抱え、いたわりながらの日々だと知っていたので、本心からご苦労を忍んだのである。「是非晋山式には来て下さいよ!」といわれ、喜んで出かけた。彼らは嘗て僧堂で修行中に先輩後輩の中で、お互いに認め合っていたので、この晋山式にも遠路出席したのである。
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